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2021/03/02
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※多忙な時期ですが、ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズは、二月頃から漸次、再開させていただいています。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第二項
超越性の意味すること、①上から価値を与える何かがある、86頁、左段30行
https://youtu.be/3lxZ1LtpS58
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1. 超越性の教理―他の信条と実践に影響を与える意味合い
a. 人間よりー高度なもの
b. 善と真理と価値―この世の移り変わりゆく流れや人間の意見によって決定されるものではない
c. 上から我々に価値を与えるー何か
【新刊紹介】旧約聖書『詩篇』傾聴: 安黒務説教備忘録 (YouTubeリンク付き礼拝説教集) Kindle版117円
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序―「魂の解剖図としての詩篇」
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「わたしはこの書物を魂のあらゆる部分の解剖図と呼ぶのを常としてきた。あたかも鏡に写すように…人間の情念を描写する。あらゆる苦悩・悲哀・恐れ・望み・慰め・惑い、…人間の魂を常に揺り動かす気持ちの乱れを生き生きと描き出す。…内的心情のすべてを打ち明け、自分自身を反省するように呼びかける」―カルヴァンの数々の名句中でも最も良く知られた一節である。(出村彰著、『宗教改革論集⒈
カルヴァンー霊も魂も体も』より)
この『詩篇』傾聴シリーズは、旧約聖書『詩篇』に傾聴し、その解き明かしを宗教改革者ジャン・カルヴァン著『旧約聖書註解』詩篇Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳに学びつつ、三年間をかけて、一宮基督教研究所チャペルで分かち合っているシリーズである。通常は、シリーズを終えた後に編集・刊行するのであるが、三年間で150篇に傾聴するとは、新約書簡では30冊ほどの刊行分量に相当する。それで、この『詩篇』傾聴シリーズは、“漸次増補版”として刊行することにした。購入された方は、下記の要領で「購入されたキンドル本を適宜アップデート」し、三年後には150篇すべてを傾聴していただきたい。
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【目次】
序
詩篇1篇「流れのほとりに植えられた木、風が吹き飛ばす籾殻」
詩篇2篇「主に油注がれた者に対してー我を“マクヘンリー砦”に遣わしたまえ !」
詩篇3篇「多くの者が言っています『彼には神の救いがない』とーしかし主よ」
詩篇4篇「追いつめられたときー私が呼ぶとき答えてください! 私の義なる神」
詩篇5篇「あなたは悪を喜ぶ神ではなくー私のことば、うめき、叫ぶ声を !」
詩篇6篇「主が私の泣く声を聞かれたー切なる願い、祈りを」
詩篇7篇「ベニヤミン人クシュのことについてー神は正しい審判者」
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<2021~2023の間ー漸次、150篇まで増補してまいります>
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【Kindle本のバージョンをアップデートする】
1.コンテンツと端末の管理に移動します。
2.お読みになりたいKindle本を検索します。
3.利用可能なアップデートがある場合は、利用可能なアップデート、アップデートの順に選択します。
2021年2月28日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇7篇「ベニヤミン人クシュのことについてー神は正しい審判者」
https://youtu.be/mWKKsOuvfac
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今朝の詩篇、第7篇を読み解く鍵は、表題の中の「ベニヤミン人クシュのことについて」にある。ベニヤミン人クシュとは誰のことなのか。諸説あるが、7篇の文脈から、Ⅱサムエル16:5以降のシムイ、20:1以降のシェバにみられる類の「ベニヤミン族に属するサウル王の縁者」であったと思われる。
「ベニヤミン人クシュ」は何をしたのか。それは、v.1-2「どうか追い迫るすべての者から私を救い助け出してください。彼らが獅子のように私のたましいを引き裂き助け出す者もなくさらって行かないように」とあるように、サウル王に生じた「ダビデに対する疑心暗鬼」の火に油を注ぐ、側近クシュの中傷である。彼は「羊飼いから将軍に、また娘婿に取り立てられたダビデはその恩を忘れ、王位を狙う不忠のやからです」と密告する“中傷の創作者”であったのである。主の働きの中にも、このような動きをみせる方はいらっしゃる。ましてや、私たちが「古い皮袋に新しいブドウ酒を注ぐとともに、新しい皮袋の必要を唱える取り組みをする」場合には、「ベニヤミン人クシュ」のような相手がいろんなかたちで登場する。これを肝に銘じ、警戒を怠ってはならない。隙を与えてはいけない。そして、それらの方が暗躍を始められるとき、私たちには詩篇7篇のような「祈りによる戦い」が必要とされる。気をくじかれないためである。
私たちの周囲を見回そう。そこには「事を丸く収めようとする人たち」に満ちている。彼らは「和を以て貴しとなす」の一見素晴らしい精神の持ち主である。同時に、彼らはすべての事柄においてそれを実践しようとする「事なかれ主義者」でもある。しかし、主の働きはそのようであってはならない。 「いつの時代でも、聖霊は教会に対し、聖書による神の啓示に忠実であるかどうかの精査を命じられる。…おのおのの伝統を謙虚にかつ批判的に精査し、間違って神聖視されている教えや実践を捨て去ることによって、神は歴史上のいろいろな教会の流れの中で働いておられることを認識しなければならない」(シカゴ・コール)からである。「誤った教えや運動を盲目的に墨守する働き人は、最も悪い資質を有する働き人である」とエリクソンは記している。
さて、「ベニヤミン人クシュ」の中傷により、ダビデは“力による王位奪取”を企てる者に仕立てられてしまった。そのことにより、サウル王は際限なく無慈悲となり、ダビデの命を狙って追撃の手をゆるめなかった。「追い迫る」「獅子のように引き裂く」打ち寄せる波のような恐怖の中でダビデはいのちからがらの逃避行を続けた。これが、健全な福音主義に立つ「福音理解」確立のための私たちの霊的戦いにも参考となる。そのような中、ダビデは神を「堅固な砦」として信頼し、「私の神【主】よ私はあなたに身を避けます」と祈った。恐怖は私たちに悪い夢を見させる。不安にさせる。しかし、私たちはその悪夢の只中で、「神という砦」の中で守られていることを知る。
ダビデには、野心はなかった。では、武装解除して、羊飼いに戻れば良かったのか。否! ダビデは「サウルの代わる王として油注がれた次期王」でもあった。ここに神のなさる不思議がある。神は、油注いですぐに王位に着かせられなかった。逆に、ダビデを荒野に追いやられた。それはねヨルダン川で洗礼を受けられ、聖霊に満たされたメシヤが、荒野でサタンの誘惑に直面されたように、ペンテコステで聖霊の注ぎを受けた弟子たちが迫害に直面したのと同様であった。私たちも、使命を賦与され、聖霊に満たされた後、「古い皮袋に注がれた新しいブドウ酒が発酵する」がごとく、特異なコンフロンテーションに見舞われ、私たちは「ベニヤミン人クシュ」との戦いに直面させられる。
しかし、この戦いは私たちの「自己主張の戦い」ではない。この戦いは「相手を貶める戦い」でもない。それゆえ、ダビデはもしわたしが「7:4悪い仕打ち」「ゆえなく奪った」のなら、「7:5
敵が追い迫り追いつき」「いのちを地に踏みにじる」「私の栄光をちりの中に埋もれさせてください」と、“神の正義”がダビデの側にあると主張する。なんと力強い祈りだろう。妥協の余地のない祈りだろう。私たちの祈りは、少し“紳士淑女”的な祈りになりすぎてはいないだろうか。このような戦いの戦士のような祈りを鍛えるべきではないだろうか。この激しさを神は喜ばれるのではないか。
ダビデは、そこで止まらない。さらに神の「祈りの銃剣」をかざして「非難」「中傷」の弾丸が降り注ぐただ中を突進する。「7:6
【主】よ、目を覚ましてください」「7:7高いみくらにお帰りください」と。ダビデは、神に「7:11
正しい審判者」の座に復帰を促す。ダビデは、「7:8
【主】は諸国の民にさばきを」「私の義と私にある誠実にしたがって【主】よ私をさばいてください」と祈る。疑心暗鬼のサウル王と側近の「ベニヤミン人クシュ」たちの情報操作により、ダビデは悪人とされ、国家をあげて追撃されるお訊ね者とされていたからである。ダビデは、自分のいのちを狙うサウルが、主によってダビデの手に渡された時、二度に渡って家来の剣を止め、すそを切り、やりと壺をのみ持ち去り、サウルのいのちを救った。ダビデは、真に油注がれた次期王であったにも関わらず、自らの力によって、愚かではあったが油注がれていた王に手をかけることはなかった。ダビデは、どういうかたちであるのか知らなかったが、主が油注がれた以上、主は主の時にそのことを、主の手によって成就されることを確信していた。それで、自らの力で「王位奪取」に向かわなかった。それが、後に「ダビデ家に対する永遠の王位」契約に結びついていく。
私たちもそうである。自らの手と力でポストやサラリーを取りに行く必要はない。それは、神が恵みにより、召命と賜物に従って賦与されるものであるからだ。主によって「隠されたかたちで油注がれた」のであれば、形式やポストはとどうであれ、「油注がれた召命」にふさわしい道を切り開かれ、「油注がれた賜物」にふさわしい奉仕が次々と賦与されるはずであるからである。神は、ダビデがそうであったように、放逐された荒野で「エペソ3:20
私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超え」たものを備えてくださる。「神は正しい審判者」であるのだから、そのことにまちがいはない。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、⑤福音が信仰のない者と接触しうる地点がある、86頁、左段20行
https://youtu.be/EP5x9ZIHPEg
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5. 神の内在性―福音が信仰のない者と接触しうる地点の存在を意味
a. 神がある範囲まで被造世界全体のうちに内在し活動
i. 自らの生涯を神にささげていない人間のうちにも関与し活動
ii. 福音のメッセージの真理に敏感になる地点
iii. 神の働きに対する接触点がある。
b. 伝道
i. そのような地点を見つけ
ii. 福音のメッセージをそこへ方向づけること目指す
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、④被造世界の中には明確な論理のパターンが、86頁、右段4行
https://youtu.be/MMvABWvMZC4
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4. 被造物から神について学ぶ
a. 存在するすべてのものは
i. 神によって存在するようになった
ii. そこに神が活動しながら内住
b. 創造された宇宙の動きを観察
i. 神がどのような方かについて手がかり
ii. 被造世界の中には明確な論理のパターンが当てはまる
iii. 秩序の正しさ、規則の正しさ
c. 神はもともと
i. 散発的あるいは勝手、気まぐれ
ii. その行為は逆説的、矛盾をもって特徴づけ
1) と信じている者たちは、
2) 世界の動きをしっかり観察したことがない
3) 神はいかなる意味でも世界の中で働いていない
【新刊紹介】新約聖書『テサロニケ人への第一の手紙』傾聴:
安黒務説教備忘録 (YouTubeリンク付き礼拝説教集) Kindle版¥116
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この説教集は、一宮基督教研究所のチャペルで『健全な終末論、健全な再臨理解』と題し、語ったシリーズのひとつ「『テサロニケ人への第一の手紙
』傾聴」である。約十年前に、わたしの周辺に大きな動きがあり、ちょうど武漢で「コロナ・ウイルス感染」が広まった時に、ある医師が警鐘を鳴らし始めたように、わたしも「ある教えと運動」の全国的な展開と所属団体と母校への悪影響を憂え、電子メールで「警戒情報」を流し続けていた。そして、「なぜ、わたしが”ディスペンセーション主義の教え”と“キリスト教シオニズム”の運動に不健全な要素があると思うのか」―牧師会での講演と質疑応答をもって説明させていただいた。
そして、いつかわたしも団体の教職者また母校の教師の奉仕を終えるときがくるだろうと思った。そして、わたしが奉仕を終えた後、この団体と母校の“針路”は一体どのようになるのだろうと心配した。それで、不健全な教えや運動に流されてしまわないために、“これらの船に錨を下しておくべきだ”と示された。それで、錨として、またワクチンとして、G.E.ラッド著『終末論』と安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』を翻訳・執筆した。
あの危機感から十年を経て、昨年のコロナ・ウイルス騒動の中、ユーチューブ・サイト等を通して「不健全な終末論、不健全な再臨理解」の汚染は以前にも増して広がっているとの情報を耳にした。その時、「神学的なウイルス感染の動向の端緒において気が付いていた私の対応はどうであったのだろう。団体や母校でディスペンセーション主義の教えやキリスト教シオニズムの運動に携わっている同労者への配慮で矛先は鈍くなってはいなかったか。感染阻止、ワクチン開発、治療の処方箋提供をあの時期にもっと徹底的に取り組んでいるべきではなかったのか」という反省である。
最近思うことは、ファンダメンタルで、ディスペンセーショナルなバイブル・スクールで育てられた戦後の教職者ですら、これらの誤りから、なかなか“治療・治癒”されないのだから、信徒の兄姉にそれを求めることは大変なことであると感じている。「一体どのようにすれば、この神学的なウイルス感染の拡大を抑え、感染者に対して効果的な治療を進めることができるのだろうか」-そのような課題を心に突き付けられている。
テキストは、紀元1世紀の半ば、アジアからヨーロッパへと初めてキリスト教が伝わった時期、生まれたばかりのテサロニケの教会に宛てた手紙である。そこには外からは迫害、内からは誤った教えと戦かった教会の勇敢な記録がある、傾聴すべき声が響き渡っている。
【目次】
『テサロニケ人への第一の手紙 』
■序
1:1-10「多くの苦難の中で喜びをもってみことばを受け入れー信仰・愛・希望」
2:1-20「御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはーあなたがたではありませんか」
3:1-13「今、私たちの心は生き返るーあなたがたが主にあって堅く立っているなら」
4:1-18「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかー健全な福音理解に根差し、健全な倫理的生活に生きる」
5:1-11「神は御怒りではなく、救いに定めークロノスとカイロスの時間」
5:12-28「完全に聖なるもの、責められるところのないものへー創造論的射程と地平線を伴い」
■プロフィール
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、③神の内在性の教理は、環境保護に適用される、85頁、右段33行
https://youtu.be/gX6ASTvoeVg
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3. 環境的な適用
a. 私たち-神が「創造されたすべてのもの」に感謝を抱いている-「世界」は神のもの、その中に臨在し活動
i. それらは-人類に合法的な必要にかなうべく使用するように提供-それゆえ、自身の満足と欲望のために「搾取」すべきでない
ii. 神の内在性の教理-「環境的に適用」をもっている
b. 他の人々への「私たちの態度」への適用-神はすべての人のうちに臨在しておられる(クリスチャンへの内住の意味ではなく)
i. それゆえ、だれも「軽蔑」されたり、「失礼な扱い」を受けるべきではない
【新刊紹介】新約聖書『テモテへの第二の手紙』傾聴:
安黒務 説教備忘録 (礼拝説教集) Kindle版 ¥116
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この説教集は、一宮基督教研究所のチャペルで『パウロからテモテたちへ』と題し、教え子や後輩たちを意識して語ったシリーズである。テキストは、紀元1世紀の半ば、エペソ地域の牧会を任されていた次世代の指導者のひとりテモテにパウロから送られた手紙である。恩師のひとり、フレッド・スンベリ師夫妻が若かりし頃の私たち夫婦に語りかけ励まし続けてくださったことなどを思い起こしつつ、私たちもそのような年代になったことをも意識し、パウロが次世代の指導者たちに語りかけた「メッセージの本質」を抽出し、次世代の教職者、兄弟姉妹たちに語りかけている。
*
【目次】
『 テモテへの第二の手紙 』
*
■序
*
1:1-8「私はあなたの涙を覚えているー福音のために私と苦しみをともにしてください」
1:9-18「オネシポロは私が鎖につながれていることを恥と思わずーベツレヘムの井戸の水のごとく」
2:1-7「わたしから聞いたことを教える力のある信頼できる人たちに委ねなさいーそして喜びのあまり」
2:8-13「耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となるーからだは罪のゆえに死んでいても」
2:14-26「きよめるなら、あらゆる良い働きに備えられたものとなるー真正な福音主義神学の四つの特質」
3:1-9「終わりの日には困難な時代が来ることを承知していなさいー識別する耳・鼻・舌」
3:10-17「しかしあなたは、私の教えに、よくついて来てくれましたーさあ、天を見上げなさい」
4:1-5「神の御前で、またキリスト・イエスの御前で私は厳かに命じますーみことばを宣べ伝えなさい」
4:6-8「私が世を去る時が来ましたー“義の栄冠”の教理のインセンティブ」
4:9-22「だれも私を支持してくれずーしかし、主は私とともに立ち」
*
■プロフィール
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、②神は、明らかにキリスト教とは無縁の人や組織を用いる、85頁、右段23行
https://youtu.be/nn5hfen0QkE
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2. クリスチャンだけでなく、未信者さえ
a. 神-クリスチャンでない人・組織をも用いられる
b. 聖書時代-ご自身の働き-イスラエルの民を通して-教会を通して-に制限されていない
i. 神-イスラエルを懲らしめるため-異教の民であるアッシリスヤさえ用いられた
c. 神-世俗的な「名前だけのキリスト教組織」を用いることも可能
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節 神の内在性と超越性、第一項
内在性の意味すること、①医学は神の一般啓示の一部分、医師の働きは神の活動の通路、85頁、右段9行
https://youtu.be/FDBAUd2dGyk
*
1. 医学は神の活動のひとつのチャンネル
a. 聖書で教えられている限られた程度の「神の内在性」-いくつかの意味を伝達
b. 神-目的達成のために「直接に働かれる」ことに制限されない
i. 神の民の祈り-奇跡的な癒し
ii. 医学の知識・熟練の適用-外科医が患者に健康をもたらすことも-神の働き
1) 医学-神の一般啓示の一部分
2) 医者の働き-神の活動のひとつのチャンネル
2021年2月21日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇6篇「主が私の泣く声を聞かれたー切なる願い、私の祈りを」
https://youtu.be/-OvEzGL2u7I
*
詩篇の中には、七つの悔い改めの詩篇(6, 32, 38, 51, 102, 130,
143)があり、これはその中のひとつである。
「ダビデの」とある。それゆえ、「6:1
【主】よ御怒りで私を責めないでください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください」の御怒りと憤りは、「バテシェバとの姦淫とその隠蔽のウリヤ殺害」(Ⅱサムエル11章)に注がれたものであるだろう。ダビデは王であった。それゆえ、すべての法の上に立ち、絶対君主のように振る舞うこともできた。しかし、ダビデは「神の法」の下にたてられた、神に油注がれた王であった。
それゆえ、ダビデがこのような大罪を犯したとき、神の御前にいかなる状態に置かれたのかは想像ができる。罪が露見しないようにすべての手は打っていた。しかし、神の目をごまかすことはできない。「ヘブル4:13
神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されて」いる。そのことが、バテシェバにダビデの子が生まれた直後に明らかとなる。神は預言者ナタンをダビデのところに遣われた。王の罪を指摘するなど、殺される危険をも帯びた使命であった。ナタンは「二人の人」の話をするよう神に遣われた。貧しい人の一匹の羊を取り上げて調理した金持ちの人の話である。ダビデは正義感に燃え、「その男は死に値する」と断言した。王の名で、絶対的な裁可がくだされた。すると、ただちにナタンは「あなたがその男です」と公然と指弾した。
通常の専制君主なら、ただちに王を冒涜した罪で、預言者ナタンを死罪を言い渡したことだろう。しかし、ダビデは、これは「神の声だ」と即座に理解し、顔面蒼白となり、預言者ナタンの前に膝を屈し、「私は主の前に罪ある者です」と、人目をはばからず溢れる涙とともに神の御前に告白した。と同時にナタンは神から「主も、あなたの罪を取り去ってくださった」と罪の赦しを宣言した。この素早く、目まぐるしい展開をどう理解すればよいのか。
その解き明かしの材料は詩篇32篇や51篇にある。「詩32:1 幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。32:2
幸いなことよ【主】が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。32:3
私が黙っていたとき私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。32:4
昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ32:5
私は自分の罪をあなたに知らせ自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。『私の背きを【主】に告白しよう』と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました」では、敬虔な信仰者ダビデは、肉欲の誘惑に陥り、二つの大罪を犯したときに、ダビデの霊的状態がどのようになったかを証ししている。若かりし頃よりあれほど溢れていた神の臨在は失われ、「神の御手」が昼も夜も重くのしかかったと。そうである。真に神の御前に生きている信仰者が罪を犯した場合、このような状態に置かれるのである。
それは、聖であり、義なる神の御前で罪とはいかなるものであるか、罪を犯し隠蔽したままではどうなるか。このことをすすがれ清められた良心は知っている。ダビデは、罪を隠蔽し、何事もなかったかのように振る舞い、バデシェバの子の誕生を喜んでいたその瞬間に、神の深い谷底に突き落とされる。それはダビデを救いに導く神の唯一の道であった。そこにしか、大罪を犯したダビデを救い出す道は存在しなかった。ダビデは悔いくずおれて、谷底で“粉々”になってしまった。
ダビデの「信仰の良心」は、自分の大罪が「6:5
死においてはあなたを覚えることはありません。よみにおいてはだれがあなたをほめたたえるでしょう」とあるように、“死罪”に値するものであり、やがては“永遠の刑罰”に服させる犯罪であることを深く自覚していた。だれがこのような大罪を忘れることができようか。ダビデは、何気ない生活の只中で「一日中うめき」「骨の髄さえ乾ききっ」ていた。それは、ダビデが真に敬虔な信仰者である証拠なのである。ダビデの中に見る“ローマ七章の経験”である。
ナタンを通しての「神の断罪」は救いの一手でもあった。その差し伸べられ「神の手」をダビデはしっかりと握った。なぜなら、ダビデは、溶岩で煮えたぎる火口のふちに、「いまや、落下せんか」とずっとたたずんでいた存在であったからである。神はダビデの手を握り返し、火口へまくれ落ちるダビデを救い出された。
「私は主の前に罪ある者です」の告白には、重い意味があったことだろう。誰も気がつかなかったダビデの大罪、しかし隠蔽に成功したはずのダビデ自身が、死とよみの底の見えない谷間のがけっぷちに立ち、v.2-3「衰え」「骨はおののき」「恐れおののいて」いたのである。V.6-7「嘆き」「涙」「苦悶」で霊的に疲れ果て、夜ごとに衰えていっていたのである。多くの真の信仰者がこのことを経験する。パウロ、アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ウェスレーもまたそうであったろう。
ダビデの心の底には深い霊的な叫び声が響いていた。V.4「【主】よ帰って来て私のたましいを助け出してください。私を救ってください」と。主に羊飼いの生活の中から、選び出され、イスラエルの王となるべく油注がれたダビデであり、サウル王の追撃からも救われて、名実ともに王位に着座したダビデであったが、心の隙をつかれたその瞬間に、バテシェバの姿を見、ウリヤの殺害にまで至ってしまった。その瞬間に、ダビデから「主の臨在」は失われた。主の油注ぎは失われた。「裸の王様」となってしまった。ダビデ自身のみがそのことに気がついていた。それゆえ、ダビデは詩篇32,51篇のような霊的苦悩の只中にあった。それが、「6:1
【主】よ御怒りで私を責めないでください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください」は、ダビデの心の底からの祈りであり、叫びであった。
ダビデは、自身の罪を深く認識していた。ダビデは、神のこのような審判の正しさを認識していた。取返しのつかない大罪を犯してしまった。悔恨の念が溢れていた。ダビデは、ひねもす「6:2
【主】よ私をあわれんでください。」「【主】よ私を癒やしてください。」「6:4
【主】よ帰って来て私のたましいを助け出してください」―「あなたの恵みのゆえに」と恵みの神、あわれみの神にすがる他なかった。ダビデにとって、真の神は、義なる神、審判の神であるだけではなかった。真の神は、恵みの神、あわれみの神でもあった。苦悩の一日は千日でもあるかのように、v.3「【主】よあなたはいつまで」わたしを臨在の外にほっておかれるのですかと、ダビデを苦しめた。一瞬一時の猶予もなく、ただちに「6:4
【主】よ帰って来て私のたましいを助け出してください」と叫んでいた。真に敬虔な信仰者はこのような苦しみの中に生活する。主の臨在なしには「息をする」ことすらできないのだ。「丘に挙げられた魚」のような苦しみがそこにあった。
ダビデは、ナタンの指弾に救われた。心の奥底にたまりにたまった「膿」の袋に神の針が刺し通され、その膿は噴出の出口を見出した。その瞬間、ダビデは「【主】が私の泣く声を聞かれた」、「6:9
【主】は私の切なる願いを聞」かれた、「【主】は私の祈りを受け入れられ」たと知った。ダビデの上に「重くのしかかっていた」主の裁き、審判の御手が取り払われ、「嘆き」と「涙」と「苦悶」のダムが決壊した。
ただ、この大罪が公のものとされたことにより、家族の中に、国家の中に、周辺国の間で、ダビデを油注ぎ王とれた「主の名」もまた汚され、嘲られることとなった。それゆえ、ダビデはv.8,10「不法を行う者」「敵」が、いつまでものさばることに怒りを抱き、主が赦しの栄光を与えられたこの瞬間から瞬く間に「敵が恥を見」「恐れおののき」「退き」「恥を見ます」主の汚名がすすがれることを祈った。
確かに、ダビデは、大罪を犯し、神の刑罰を受けることとなった。しかし、ダビデの神の御前における応答は、信仰者の模範ともなった。ダビデの神観、人間観、罪観、贖罪観等は、まだ見ぬメシヤを軸とした「新約の福音理解」の典型を言い表す“預言者のひとり”と機能している。アブラハムの「復活信仰」の本質が、パウロの「復活理解」の本質と輪郭のパースペクティブを明確にしたように、ダビデの「贖罪信仰」の本質と輪郭のハースペクティブをこの上なく明確なものにしている。ある意味で、パウロは、ダマスコで打たれた新約の光の下で、“復誦”しているにすぎない。
わたしたちは、救いの時に「罪人であること悔い改め、福音への信仰」(マルコ1:15)を明らかにする。と同時に、詩篇に悔い改めの詩篇が含まれていることの意味は、わたしたちは救いの時だけでなく、日々の生活の中で、肉の思いによる働きを意識し、「微に入り細にいる」かたちで、悔い改めの詩篇の助けを受け、ダビデのように「主と共にある至福の人生」を垂直に深く掘る大切さを教えられる。その意味で、悔い改めの詩篇は「わたしたちの心の膿の袋を刺し貫き、切り裂き、掻き出すメス」である。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、⑥もし内在性、もしくは超越性を強調しすぎるなら、85頁、左段18行
https://youtu.be/rpAELo5LgvQ
*
8. 両面の強調を維持することの重要性
a. 内在性は、
i. 神が自然の手段を通してたくさんの働きをしていることを意味している。
ii. 神の働きは奇跡に限定されない。
iii. キュロスのような普通の、神を信じない人間をも用いる。
iv. キュロスは神の「牧者」、 神によって「油注がれた者」(イザヤ44:28、45:1)として描かれている。
v. 神はテクノロジー、人間の熟練、学問をも用いる。
b. 同時に、神は超越的な存在
i. 神はいかなる自然の出来事も
ii. 人間的出来事も無限に超えている。
c. しかし反対に、もし内在性を強調しすぎるなら、
i. 起こることすべてを神の意志や働きと同一視
ii. 1930年代にアドルフ・ヒトラーの政策―世界における神の働きと考えたドイツのキリスト者たち
iii. トランプ前大統領の支持者たちにも似た傾向を看取
iv. 神の聖さと世界で起こっている多くのこととの間―区別がある
d. しかし、もし超越性を強調しすぎるなら、
i. 神のほうでは我々の努力を通して働くことを意図
ii. 我々はあらゆるときに神が奇跡を起こすことを期待
iii. 神自身がそこに臨在し活動していることを忘れー被造物を酷使
iv. 神がキリスト者でない者のうちに働き、彼らに接触していることを忘れ
1) キリスト者でない者が行うことの価値
2) 福音のメッセージに対してある程度の感受性を保有―低く見てしまう
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、⑤幾つかの実在が同じ空間に共存、84頁、右段37行
https://youtu.be/PzzMeepZWzA
*
7. 実在におけるさまざまなレベル、領域という概念
a. いくつかの実在が同じ空間の中に共存し、
b. 互いにアクセスできない状態で独立
i. 物理学者たちー同じ空間に複数の宇宙が占有している可能性
ii. 音という現象―聞こえないが存在(内在)しているさまざまな音
1) そのような音は非常に周波数の高い搬送波によって運ばれる
2) 人間の耳は助けなしでは 探知できない
(a) 無線周波数搬送波から可聴周波数波を「分離」できるラジオ受信機
(b) これらの音を聴くことができる
iii. 同様に、存在してはいても
(a) テレビ受信機がない限り
(b) 見えない視覚イメージ
c. 神
i. 被造世界の内部に存在し、活動
ii. まったく異なったタイプの存在―被造世界を超越
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、④この二つの教理の両方を保持することが重要、84頁、右段20行
https://youtu.be/X9QDNrV7j-U
*
6. この二つの教理の両方を保持することが重要
i. 必ずしも簡単な ことではない
ii. どのような視点から考察するのかに問題
b. 神の超越性について考える場合
i. 伝統的なやり方―本来、 空間的なもの
ii. 神は天にいまし、世界の高みにおられる
c. これは聖書の中に見つかる描写である
i. 宇宙の内部の特定の場所に位置づけられることのない霊的存在
ii. 「上」 とか「下」ということが実際には当てはまらない
iii. 現代では自明の事柄
d. 地球は球体であるという我々の理解
i. 「上」と「下」は意味をなす用語ではない。
ii. では、神の超越性と内在性という真理を正確に伝達するために使うことのできるイメージ
iii. 他にあるのか。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、③内在性の意味、超越性の意味、84頁、左段41行
https://youtu.be/wXE_IKkVo8I
*
4. 内在性の意味は、
a. 神は被造世界のうちに、
b. そして人類のうちに、
c. 神の存在を信じないあるいは神に従わない人々のうちにさえ、
i. 臨在し活動していることである。
1) 神の影響力はあらゆるところにある。
2) 神は自然のプロセスのうちに、またそれを通して働いている。
*
5. 一方、 超越性の意味は、
a. 神が単に自然の、また人間性の特質ではないことである。
i. 神は単に最高レベルの人間ということではない。
b. 神は我々の理解力に制限されるお方ではない。
i. 神の聖さと慈しみ深い善性は、
1) 我々の聖さと善性を
2) はるかに超え、無限に超越している。
3) そして このことは神の知識や力においても真実である。
ii. 神の聖さと慈しみ深い善性は、
1) 我々聖さと善性を
2) はるかに超え、無限に超越している。
3) そしてこのことは神の知識や力においても真実である。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、②イザヤ書55:8-9、6:1-5、84頁、左段20行
https://youtu.be/9OL1zOG6RGE
*
2. イザヤ55:8-9―神の思いが我々の思いを超越
a. 「わたしの思いは、あなたがたの思いと 異なり、
b. あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
c. 天が地よりも高いように、
d. わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
e. わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
*
3. 6:1-5―主が「高くあげられた御座に着いて」いる
a. セラフィムは神の超越性を示し
b. 「聖なる、聖なる、 聖なる、万軍の主」と叫び、
c. それから「その栄光は全地に満ちる」と内在性に関する言及 を付け加える。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章 神についての教理、第一節
神の内在性と超越性、①エレミヤ書23:24、83頁、右段27行
https://youtu.be/on6mhWLPGpk
*
1. 重要な一対の概念
a. 神は 被造世界に内在しているという教理
b. 神は 被造世界を超越しているという教理
i. 聖書には両方の真理―エレミヤ23:24
1) 宇宙全体に神が臨在
(a) 「人が隠れ場に身を隠したら、 わたしはその人を見ることができないのか。
(b) 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
2) しかし、まさにこのテキストにおいて内在 性と超越性の両方が現れている。
(a) 「わたしは近くにいれば、神なのか。
(b) 遠くにいれば、神ではないのか。」(23 節)
ii. 使徒17:27-28
1) パウロは、アテネのアレオパゴスで哲学者たちに
(a) 「確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
(b) 『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。
(c) あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と 言ったとおりです」と。
2021年2月14日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇5篇「あなたは悪を喜ぶ神ではなくー私のことば、うめき、叫ぶ声を
!」
https://youtu.be/O8VhCWC9Pqg
*
五里霧中の中、詩篇の150篇を旅している。そこで、教えられること、気がつくことがある。ここには、ダビデの“戦いの詩”が多くあると。黙示録3:15-18では、ラオディキアの教会に「あなた方は、熱くもなく、冷たくもない。生ぬるい」と叱責されている。そして「火で精錬された金、裸の恥をあらわにしない白い衣、目が見えるようになる目薬」を買いなさい、とある。わたしは、“ダビデの詩篇に傾聴する”とはそういうことではないか、と教えられている。
詩篇5篇は、サウル王の死後、ダビデが平和のうちに王国の継承者となったときに、それまでの“苦境、包囲、絶体絶命の危機”を逃れてきた出来事を回想しつつささげた祈りである。わたしたちは、クリスチャン生活、信仰者の生涯をなんと心得ているだろう。水平の「人間関係社会」と垂直の「信仰生活」を“二元的な”ものとして割り切っていないだろうか。「世の中とはみなそんなものさ」―「寄らば大樹のかげ」「長い物には巻かれろ」「郷に入れば郷に従え」「出る釘は打たれる」「能ある鷹は爪を隠す」「和を以て貴しとなす」「赤信号皆で渡れば恐くない」等。“水平”の人生と神との“垂直”の人生の分離した人生と割り切り、悟って生きていないだろうか。
しかし、わたしたちが詩篇に傾聴するとき、“水平世界”と“垂直世界”がひとつとなった世界を見せられる。ダビデは、この世と信仰の世界を“分離分割”していない。彼は、この世界の只中に、義なる神の支配と審判を求めて、「v.1-2祈り、うめき、叫んで」いる。「v.3朝明けに」見張りやぐらに立ち、敵の軍勢に包囲された砦からの救出を待望してやまない兵士のように「これ以上、救いが差し控えられて、救出が手遅れとならないよう」、早く、直ちに聞き入れられるよう祈り、今か今かと待ち望んでいる。
わたしたちの“福音主義”の福音理解における戦いもまた、同じではないのか。「誤った運動や教えが大挙して押し迫る時代」である。精錬されていない不純物が混ざっている教え、倫理的な恥も外聞もない運動、良い麦と毒麦の教えを見分けることのできない視力の指導者が巷にあふれる時代である。彼らは「ローマ10:2
熱心ではあるが、知識がない」。
時にわたしたちは、「多勢に無勢」と、白旗をあげてしまっている、いわば風見鶏のような人たちを見かける。しかし、わたしたちは「5:4
あなたは悪を喜ぶ神ではなく」という神観の確信をもって、狂信的な軍団に包囲されることがあっても、屈することはない。わたしたちの戦いは、“わたしたちの主義主張の戦い”なのではなく、「Ⅰサムエル17:47これは主の戦い」―福音主義のセンターラインを死守する戦いであるのだから。
主は、「v.5-6
不法、偽り、欺き」をいつまでも放置されるお方ではない。私たちの神は「v.4悪を喜ぶ神ではなく」、義なる神である。わたしたちの神は「v.8-9
義によって導かれる神」、わたしたちの福音理解の「道をまっすぐして」くださる神である。古い皮袋の教えや運動色の強い教会・教派の中で、このような取り組みをすれば、どのような摩擦が起こりうることだろう。どのような戦いの渦中に置かれることだろう。ダビデのような生涯を送ることになる。そのことに疑いの余地はない。さあ、そこでわたしたちはどうすべきか。それが問題である。
さて、一時的には敗色濃厚かもしれない。それは「山に動いて、海に入れ」というようなものなのかもしれない。でも、これを“神の時”-すなわち“カイロス”の時間のスパンでみてみよう。そのように、神の啓示によって誤りを修正し、良い麦の中に混入している毒麦を除去し、より健全な教えと運動へと、その教会・教派を導く取り組みは、最終的に「神の祝福」を勝ち取ることになるのではないか。なぜなら、わたしたちの神は“生きておられる”神であり、「悪を喜ぶ、すなわち“間違った福音理解”を喜ぶ」神ではないのだから。この神観が大切である。このような神理解が事の核心である。
長い先に、誤った運動や教えを支持した人々は、わたしたちが信頼してやまない「義なる神」によって、「v.10
責めを負わせられ、追い散らされ」ることになるだろう。将来、否定的な評価を受けることになるだろう。それというのも、彼らは自分たちの主義主張の誤りに気づかず、「神の福音理解」に逆らっているからである。
健全な福音理解を愛し、そこに「v.11身を避ける」人たちが喜びで満たされるように。まだまだ続く戦いの最中にある彼らを、主が「かばってくださる」ように。「清流の流れのような純粋な福音」を彼らが誇りとしますように。神さまが“難攻不落の砦”となって、「v.12
大楯」で彼らを守ってくだいますように。
「私たちは、彼らの苦境をみて決しておじけづくものではない。神の助けによって、私たちも、代価がどんなに大きくとも、断固として不正不義に立ち向かい、福音に忠実に生き続けるものである。私たちは、迫害は必ず起こると警告されたイエスのことばを忘れない。」(ジョン・ストット/宇田進訳『ローザンヌ誓約―解説と注釈』「誓約・第十三項
自由と迫害」)
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章
神についての教理、序④解剖学の教科書でなされる研究方法、83頁、右段10行
https://youtu.be/HubjDpcEL70
*
4. 解剖学より、親密な人格関係への手段
a. 神-事実上、「解剖」に-過度に「分析的」に-「解剖学」の教科書におけるアプローチと同様のやり方で規定され分類される
b. 神についての研究-過度に「思索的」に-神との親密な交わりより、「思索的な結論」そのものが目標
c. 神の性質についての研究-神についての「より正確な理解」とそれに基づいた「神とのより親密な人格的関係」への手段
【Jets インフォメーション】 学会誌46号、48号のバックナンバー公開のお知らせ
*
『福音主義神学』誌編集委員会のルールに基づき、下記の学会誌のバックナンバーの公開をしました。皆様の
神学研鑽の一助にしていただければ幸いです。
*
■『日本福音主義神学会』学会誌 Since 1970
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_papers.htm
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■46号(2015年発行) 福音主義神学、その行くべき方向Ⅱ-聖書信仰と福音主義神学の未来-
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers46.html
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■48号(2017年発行) 福音の理解-信仰をめぐって-
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets/jets_paper/jets_papers48.html
*
過去五カ年の学会誌は未掲載です。論文タイトルのみ掲載しています。但し、試験的に、関心を喚起し、購入を促すためプレビュー版は刊行直後に掲載、会員勧誘のための特典として会員サイトは三年後に活用可としています(会員以外の印刷・流用はご遠慮ください)。学会誌は、各地のキリスト教書店、または事務局のある神戸ルーテル神学校(Tel.078-221-6956)にて注文・購入していただけます。
*
PS
「日本福音主義神学会」公式ホームページは、神学会全国理事会より委託を受け、学会誌「福音主義神学」編集委員会の監督下で、2010年7月より一宮基督教研究所(安黒務)が編集しています。会費を完納されている会員対象の「印刷可」設定ファイルの各パスワードは、一宮基督教研究所(安黒務)にメールにてお問い合わせください。
感想、意見、質問、登録等の窓口 Mail-Address : aguro@mth.biglobe.ne.jp
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章
神についての教理、序③より知的なレベルでの問題、83頁、左段33行
https://youtu.be/qUUZK8Oofbs
*
3. より知的なレベルの問題
a. 知的レベルでの多くの問題-神についての正しい見方の必要性を示唆
b. 初代教会における「三位一体」の教理-特別な緊張と論争
c. 「神論」における教理的議論の最近
i. 「創造」に対する神の関係
1) 神-創造物からはるかに分離され、隔てられている(超越性)
(a) 神は創造物を通して働かれない、それを通して神について何もしりえないのか?
2) 神-人間社会や自然のプロセス(内在性)の中で見出されうるのか?
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章
神についての教理、序②「あなたの神は小さすぎる」J.B.フィリップス、83頁、左段9行
https://youtu.be/EOmWF7xGOeg
*
2. 「あなたの神は小さすぎる」J.B.フィリップス
a. ある人々-神=罪を犯し、踏み誤る人々に襲い掛かる機会を探している「天からの警察官」
i. 保険会社-いつも破局的な出来事を「神の行為」であるかのように-力強い、意地悪い存在を意図
ii. 神=祖父-決して人間の人生の喜びを減じることを望まれない、寛大な、優しい老人
b. 「イスラエル民族を軸とした誤った聖書解釈法」
i. 普遍的な人類全体を分け隔てなく愛されるイエス・キリストにおいて明らかにされた神を、
ii. 過度に民族的に偏愛される神として描く
iii. 民族主義的解釈法・民族主義的聖書観→神論から終末論までの「福音理解」全体を歪めている
c. 霊的生活の真の意味と深さ-神についての多くの「偽りの概念」の矯正が必要
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第八章
神についての教理、序①神学の中心的位置を占める、83頁、左段1行
https://youtu.be/sRcxThuy9_s
*
1. 「神についての教理」-神学の中心的位置にある
a. 神についての見方-
i. 「神学」を構築、
ii. 人生のフレームワークの提供、
iii. 奉仕のスタイル、
iv. 人生哲学に彩り
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第五節
歴史的権威と規範的権威、80頁、左段35行
https://youtu.be/KpApzcRBPNQ
*
1. 当時の人々を拘束するものと私たちを拘束するもの
a. 聖書-「聖書時代」において-個人やグループに対する「神の意思」が何であったのかを告げていることにおいて「権威」がある
b. 何が「当時の人々」を拘束しており-また何が「私たち」を拘束しているのか
2. 一時的な形式と普遍的な本質
a. 二つのタイプの「権威」-「歴史的なもの」と「規範的なもの」-区別する必要
i. 神が「聖書時代の人々」に要求されていたものは何か
1)
聖書-聖書時代に何が起こったのか-人々に要求されたものは何であったのか-教えている点において「歴史的な権威」がある
ii. 神が「私たち」に期待しておられるものは何か
1) それらに「規範的権威」があるのか-当時の人々に期待されたのと「同じ行為」を遂行するよう「私たち」を縛るのか
2) 「当時の人々に対する神の意思」と「私たちに対する神の意思」-同一視しない注意深さ必要
iii. 何がメッセージの「普遍的本質」であり-何がその表現の「一時的形式」なのか-決定することが必要
1) 規範的権威をもたずに-歴史的権威をもつ箇所も存在する
2021年2月7日 旧約聖書 『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇4篇「追いつめられたときー私が呼ぶとき答えてください!
私の義なる神」
https://youtu.be/SUdCvbGcaDw
*
「人生は出会いで決まる」と言われる。わたしは、聖書解釈や説教もまた、“出会い”で決まると教えられる。最近では、エペソ書解釈と説教でストットの“Bible
Speaks
Today”、ヨブ記解釈と説教で浅野順一先生の註解との出会いがあった。今回の『詩篇』解釈と説教では、カルヴァンの『詩篇』註解と出村彰先生の解説との出会いによって助けられている。
まず詩篇の読み方、詩篇の傾聴の仕方を教えられている。詩篇という書物は、「魂の解剖図」だというのである。詩篇は、鏡に写すように、人間の情念を描写している。人間のあらゆる苦悩、悲哀、恐れ、望み、慰め、惑いー人間の魂を揺り動かす、気持ちの乱れを生き生きと描き出している。
内的感情のすべてを打ち明け、自分自身を反省するように呼び掛ける。それは、詩篇の記者たちが、まず自己をダビデと同時代化し、カルヴァンがダビデと自己同一化を計り、さらには現代にあってはカルヴァンの詩篇註解を読む私たちがカルヴァンとの同化を試みようとするのである。
というのは、ジュネーブにおけるカルヴァンの“福音主義”のための闘いは、ダビデの“王権”のための戦いと重なるからである。そして、それらの闘いは、今日の私たちの“健全な福音理解確立”のための戦いと重なるからである。
カルヴァンの詩篇註解の特徴は、ダビデの詩篇の“キリスト論的転換、また展開”である。ダビデをもって、またダビデを通して語りかけてくるのは、実は“キリストにおける神”なのである。ダビデを「羊を追う者から選び分けられ、油注がれ、立てられ、“王位の尊貴”にまで引きあげられた」のは、徹底的に“神の側の主導”によるものであった。“神の主権的行為による召命であり、使命”であった。ダビデには、選択の余地はなかった。
カルヴァンもまた、卑しく、みるべきとこのない身から引き上げられ、ついには福音に仕え、これを宣べ伝えるという、「光栄に満ちた責務」へと召された。私たちもまた、平凡な生涯で終えても仕方のなかった卑しい者であったにもかかわらず、神の不思議な摂理の御手により、救われ、献身し、学びの機会を与えられ、今ICIというかたちで、「福音理解の健全化」のために貢献するように召され、油注がれ、その使命を果たすよう、日々励まされている。
背景、文脈、適用を大切にするーそのような観点から、この詩篇を味わうよう導かれている。
*
さて、今朝は、詩篇4篇である。今朝の箇所は如何なる背景をもつのか。「アブサロムの変」か、「サウルによる追撃期間」のものか。解釈者により見解は分かれる。カルヴァンは、「4:2いつまで」から、短期間で解決した「アブサロムの変」ではなく、長期間の「サウル王による追撃期間」のものと解釈している。私たちも、後者とみて解釈・適用していこう。まず、背景をみていこう。
*
【詩篇4篇の背景】
「王としてのサウル」は、準備なく油注がれた王であったようである。サウル王は、Ⅰサムエル13章「祭司のみに許されている犠牲を自分でささげ」、14章「軍隊の食を控えさせる失態、ヨナタンへの死の宣告」等、愚かな指示を連発し、15章預言者サムエルを通し、主から「あなたは主のことばを退けたのでは、主もまたあなたをイスラエルの王位から退けられた」と宣告されてしまった。
その後、16章羊飼いの「ダビデがひそかに、イスラエルの王として油注がれる」。事は公に行われなかった。サウル王がそれを知れば、ダビデを殺すかも知れなかったからである。密かに油注がれたダビデは、神の摂理の御手にあって、次の王として準備されていく。
サウル王は、王位退位の宣告以来、悪い思いに襲われるようになり、それを和らげるため、「音楽の才に溢れるダビデ」を身近に置くようになる。ダビデは、サウルの道具持ちとして仕えつつ、王の側近のひとりとして列に加えられ、「政治」を学んでいく。
17章で「ダビデは、巨人ゴリアテとの戦い」に直面する。その際にも、ダビデには十分な準備があった。すでに獅子や熊の戦いを積んでいたのである。ダビデは、一瞬にして状況判断のできる戦士であった。それで17:34
ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、17:35
しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。17:36
しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから」と。17:40
そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。17:49
ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。ダビデは、その後、戦士たちの長とされ、サウルが遣わすところ、どこにおいても勝利を収めた。人々は、18:7
女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」18:8
サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」18:9
その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。
やがてダビデは、サウル王にいのちを狙われるようになり、ユダ南部のアドラムの洞穴、モアブ、南ユダ、ケイラ、ジフ、マオン等を転々と逃亡生活を送る。そのような中、ダビデを慕う600人の人々が従者として加わっていった。ただ、エンゲディでは、サウルの命が目の前に置かれたが、ダビデは流血によって「王位を奪取」することを願わず、サウルの命に危害を加えなかった。ジフでも「サウルの命」を助けた。
*
【詩篇4篇】
ダビデに私心、野心はなかった。ただ、主の主権的選びと主の主導権に基づく油注ぎのみがあった。それゆえ、v.1「私の義なる神」と訴え出ることができた。ダビデにとってv.2「私の栄光」とはすなわち「神の栄光」以外のなにものでもなかった。「ご自分の聖徒」に対する特別扱いは、主の選び、主の油注ぎにより、主が与えられた召命、使命を責務として背負う者に対する主ご自身による取り計らいに過ぎなかった。
サウル王のダビデ追撃は、的外れであるばかりか、「主のご計画」に対する反抗であった。サウル王に扇動され、v.2「空しいもの」「偽り」、v.4「罪」を愛する、流される、翻弄されるのではなく、v.4「心中で語り」「床の上で静まり」自省するよう促す、そして悔い改めのv.5「義のいけにえ」をささげ、「主のみ旨」に依拠せよと語る。
多くの人々は、「良い目を見させてくれる」ことを追い求める。外的なこと、現象的なこと、対物的な成功・祝福である。現世ご利益の追求の願望はやむことはない。それをサウルがくれるのか、あるいはダビデがくれるのかと。しかし、ダビデは、v.6「主よ、どうかあなたの御顔の光を私たちの上に照らしてください」と祈る。神さまの真実な臨在と祝福こそが「喜び」の源であると。ダビデは、追い迫るサウルの追撃隊の最中で、神の膨大な軍勢に囲まれ、守られているかのように、v.8「平安のうちに」身を横たえすぐ眠りにつく。王位にあり軍勢に守られつつ「主の霊はサウルを離れ去り」(Ⅰサムエル16:15)といわれ、おびえの中に生きたサウル王とは対照的である。
*
ユーチューブ・サイトの一宮基督教研究所の礼拝のメッセージ集の、「旧約聖書『詩篇』傾聴シリーズ」から全編(2021年度~2023年度)を漸次傾聴していくことができます。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第三節
権威の客観的構成要素と主観的構成要素、78頁、右段32行
https://youtu.be/KyEZGsGQuvk
*
1. バーナード・ラムの「権威のパターン」
a. 客観的な言葉=「書かれ、霊感された聖書」
b. 聖霊の内的照明と確信を伴って
c. クリスチャンにとって「権威」を構成している
*
2. 「一日一章、悪魔遠ざける」
a. 17世紀のスコラ的正統主義-権威=「聖書のみ」と主張
b. 20世紀の米国の「ファンダメンタルの立場」
i. 自動的に「神との接触」に導く「客観的な特質」-聖書の中にみる
ii. 「毎日、聖書を読む」-それ自身から価値を受けられる
iii. 「一日一個のリンゴで医者いらず」-「一日一章読むことは悪魔を遠ざける」
iv. 聖書がほとんど「崇拝の対象」になる
*
3. 権威ある聖書と聖霊の特別な働き
a. 「聖霊」-クリスチャンの主要な権威とみなす「幾つかのグループ」
b. あるカリスマ的なグループ-今日でも「特別な預言」-神からの新しいメッセージ
c. ほとんどの場合-それらのメッセージは「ある聖書の箇所の真の意味を明らかにする」こと
d. その主張-聖書には権威がある-しかし、その意味は「聖霊の特別な働き」なしに見出されない
*
4. 客観的基盤と主観的経験
a. 権威を構成するもの-それら二つの要素の結合
i. 「正しく翻訳された、書かれた言葉」=客観的な基盤
ii. 「聖霊の内的な照明・説得する働き」=主観的な側面
b. 両者がともに-冷たい心と熱い頭×-冷たい頭と暖かい心○
i. ある牧師
1) 御霊なしで聖書をもつ-枯れはてる
2) 聖書なしで御霊をもつ-吹きあおられる
3) 聖書と御霊を両方もつなら-成長する
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第二節
聖霊の内的働き、③御霊の助け、77頁、右段12行
https://youtu.be/Vg3Wip_jn8w
*
5. Ⅰコリント2:14―御霊の助けなしには
6. エペソ1:18―心の目がはっきり見えるようにされる
7. 御霊の一度きりのわざ「再生」と継続的な働きーヨハネ14-16章
a. 教え、思い起こさせる(14:26)
b. イエスについて証言する(15:26-27)
c. 罪と義と裁きについて宣告する(16:8)
d. すべての真理に導く(16:13)
8. 「真理の御霊」という呼称
9. ヨハネ14-16章―聖霊の役割のまとめ
a. 新しい真理の追加というより
b. すでに賦与されている啓示の照明・適用
【断想】“ミクロの世界とマクロの世界”のギャップが存在するのではないか?―Stephen Sizer, “Christian
Zionism”, “Zion’s Christian Soldiers ?”を共通の土俵としての「臨床試験」データの必要
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以前、戦術と戦略について記述した。局所的な戦いと戦争全体についての見識の問題である。植民地獲得競争の時代の出遅れグループのドイツ、イタリアと組んで、日本は朝鮮半島、満州、中国大陸、東南アジア諸国、南アジア、太平洋諸国の資源と市場獲得を求めて進出していった。そして、真珠湾を奇襲攻撃し、戦術的な成功を収めたかに見えた。しかし、戦争全体の将来を大局的に見渡せば、最初から勝ち目のない戦争であった。米国と日本の国力の差は歴然としていたからである。
わたしは、ここ十年余り、「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」について膨大な重要な書籍に目配りしてきた。そのときに感じされることがこのことに似ている。「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」に取り組んでおられる同労の教職者、また兄弟姉妹は、熱心なクリスチャンであり、素朴な信仰を持っておられる方が多いように思う。なので、わたしが『福音主義イスラエル論Ⅰ:神学的・社会学的視点からの一考察』、『福音主義イスラエル論Ⅱ:ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践に関する分析と評価』に執筆したような内容の紹介を読んで、驚かれる同労者、兄姉の方もおられる。
実は、そのような驚きは十年余り前からわたし自身が感じてきた“驚き”なのである。わたしは、直接にこの「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」に関わっておられる素晴らしい同労者、兄姉たちから、この“ギャップ”について教えを乞いたいと願っている。
わたしは、今、「“ミクロの世界とマクロの世界”のギャップが存在するのではないか?」と考えている。「キリスト教シオニズム」とは、基本的に「ユダヤ人のパレスチナへの帰還」を積極的かつ公的に支援する運動のことであり、世界各地に離散し苦しんでいるユダヤ人を助けることは良いことである。では、何が問題なのだろう。キリスト教会がそれらの教えや運動に関わる場合に、それらの運動の前面に立って、取り組んでおられる熱心なクリスチャンや兄姉の素朴な信仰のみに頼るのではなく、“マクロな視点”から、これらの「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」について基本的な理解と本質的課題を知っておく責任があるのではないか。
そのようなことで、神学生からもよく質問を受ける神学教師の立場、また所属団体の支援も受けて専門的な神学的素養を身につけてきた教職者として、一定程度の責任を果たす必要があるだろうと考え、上記の二つの論文を執筆した。
その「A-2)
キリスト教シオニズムの諸形態」に以下の記述がある。「さて、私たちは日本にいて、様々なかたちで「ユダヤ人への伝道や支援」に取り組む働き
を目にし、また耳にする。しかしキリスト教シオニズムには「どのような形態」があるのか知っているだろうか。よく知らずに新しい教えや運動との関係を深め、後に教会や教派に混乱を起こす。そうならないため、それらの『神学と実践』の『輪郭と本質』を知っておきたい」。
この「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」を“マクロな視点”から理解する最良の二冊が、Stephen
Sizer, “Christian Zionism”, “Zion’s Christian Soldiers
?”である。この本には、キリスト教世界を代表する神学者や神学雑誌の編集長等々15名の推薦文が冒頭に掲載されている。その中のひとつを紹介したい。福音派を代表する英国聖公会のJ.R.W.ストットは「ステファン・サイザーのクリスチャン・シオニズムに対する画期的な批評を喜んで推薦します。
そのルーツ、その神学的根拠、およびその政治的影響に関する彼の包括的な概要は非常にタイムリーです」と記している。
“Christian Zionism”の結論の構成は、「1. キリスト教シオニズムの発展に関する観察、2.
キリスト教シオニズムの多様な形態、3. キリスト教シオニズムの建設的および破壊的側面、4.
キリスト教シオニズムに対する批判的評価、5. 聖書的シオニズム:契約神学的理解に立つ代替案」となっている。
わたしたちの団体、また母校の周辺で「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」が津波のように押し寄せるようになってきたのは、ここ十年あまりのことのように受けとめている。米国における勃興の余波かもしれない。それが、日本のキリスト教会の健全な福音理解の深まりと健全な倫理的証しにとって有意義であれば積極的に導入していけば良いと思う。ただ、ミクロの視点からの検証だけでなく、マクロな視点から“そのルーツ、その神学的根拠、およびその政治的影響に関する彼の包括的な”検証が必要とされているのではないか。
昨今は、コロナ・ウイルスの関係で世界のワクチン開発企業が先を争って、開発を推し進めている。ただ、薬とかワクチンには、副作用等もあり、広範な“臨床試験”データの蓄積が必要とされる。「ディスペンセーション主義の教えとキリスト教シオニズムの実践」に関しては、Stephen
Sizer, “Christian Zionism”, “Zion’s Christian Soldiers
?”を、ひとつの共通の土俵として、キリスト教シオニズムに関係されている諸団体、諸教会、諸兄姉を交えて、広範な対話、検証が必要とされているように思う。
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https://www.amazon.co.jp/s?k=stephen+Sizer&i=english-books&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&ref=nb_sb_noss
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第二節
聖霊の内的働き、②存在論的な違い、罪深さから生じる制限、76頁、右段27行
https://youtu.be/PkFng06tWv0
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2. 存在論的差異:創造者と被造物の関係
a. 聖書の意味の理解、その真理の確信-「聖霊の照明と証し」が必要
i. 神と人間の間-「存在論的差異」-神は「超越的なお方」-人間の理解の範疇を超えておられる
ii. 神-人間の「有限な概念」「人間の語彙」によって把握できないお方
iii. 神-理解されうるが、「包括的なかたち」で理解できない
iv. それらの限界性-「人間存在」のうちに生来のもの-罪と堕落の結果以上のもの-創造者と被造物の関係に由来
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3. 神の事柄・人の永遠の運命-確かさ
a. 「神の事柄」に関する「確かさ」を必要
b. 「霊的・永遠的ないのちと死」という主題-「単なる可能性」×
c. 確実さについての私たちの必要-「人間理性」が提供できない「確かさ」を必要
i. どの車を買うべきか?-家にどのペンキを塗るべきか?-選択肢の利点をリスト・アップ
ii. 「人間の永遠の運命」-だれを信じるべきか?-何を信じるべきなのか?-「確かさ」の必要性は高いものに
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4. 人類の罪深さに由来する制限
a. マタイ13:13-15、マルコ8:18-「聞くだけで理解しない。見ないし悟らない」人々について
i. マタイ13:15-心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっている
ii.
ローマ1:21-彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった
iii. ローマ11:8-その状態を「彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた」神に帰している
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、⑩ダビデ的な王としてのメシヤー健全な聖書解釈法と誤った聖書解釈法を見分けるポイントはどこか?、8頁、14行
https://youtu.be/gRJNYycZ0_E
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【分解】
1. 旧約聖書にはー並列して置かれている三つの救い主の人物像
a. 最初のものは、ダビデ的な王としての救い主
b. 新約時代においては「救い主」「キリスト」「油注がれた者」
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2. ダビデの王座に連なる王室の子孫―イザヤ書11章
a. ダビデの父、エッサイの王室の血統の家系が倒された日
b. ダビデの子孫の救済史的希望は挫折
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3. 倒された木の切り株から、新しい芽、新しい枝、新しい王室の子孫
a. 「その上に、主の霊がとどまる」。
b. 知恵と悟り、そして知識
c. 真の正義、義、公正をもってその民を統治
d. 彼の第一義的な使命―公正な王としての統治
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4. 正しく統治するだけでなく、「口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す」
a. 神に敵対する者や神の民をも打つ
b. それは平和と幸福の支配する世界をもたらす
c.
また、「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく」
d. 呪いは自然界から取り除かれ、獰猛な獣は残忍さを消される
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5. しかしながら、これらは彼の王国のひとつの側面にすぎない
a. さらに「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」
b. 「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く」
c. これらは異邦人の救いを意味
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【ポイント解説】→健全な聖書解釈法と誤った聖書解釈法を見分けるポイントはどこか?
ラッドは、同じような聖書観をもつ者の間で、二つの聖書解釈法があると指摘しました。一方は、ディスペンセーション主義聖書解釈法で「イスラエル民族の盛衰とその栄光の回復」を軸として旧新約聖書を解釈しようとします。他方は、福音主義の聖書解釈法で「イエス・キリストの人格とみわざ」を軸にして旧新約聖書を解釈します。
ディスペンセーション主義者は、福音主義の聖書解釈法を「契約神学」と呼んで、聖書的でないと批判します。しかし、G.Vosをはじめとする契約神学の捉え方は、旧新約聖書における啓示の、①歴史性、②連続性、③漸進性を捉え、旧新約聖書全体を「有機的一体性」すなわち「神のひとつの民、神のひとつのプログラム」をもって解釈しようとするものであり、それらのはきわめて聖書的な解釈法であることは、聖書神学の世界では立証済みの事柄です。
これに反して、ディスペンセーション主義の立場の本では、「契約神学」的な「神のひとつの民、神のひとつのプログラム」という捉え方を“非聖書的”として否定し、「神の二つの民、神の二つのプログラム」という前提で旧新約を、いわば“真っ二つ”に切り裂いて歪んだ解釈を施していきます。つまり、ディスペンセーション主義聖書解釈とは、旧新約の有機的一体性を破壊する誤った解釈法なのです。
今日のポイントー健全な聖書解釈法とは、旧新約聖書を有機的一体性をもって解釈しようとします。それは、「神のひとつの民、神のひとつのプログラム」という前提を持つ解釈法です。ラッドは、新約の使徒たちが、この解釈法を一貫して使用していることを、「メシヤ預言」の解釈において立証しようとしているのです。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第二節
聖霊の内的働き、①啓示、霊感、照明、76頁、右段3行
https://youtu.be/dXssLbOh5mw
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1. 啓示と霊感と照明
a. 啓示-神が「神の真理」を人類に知らせる行為-垂直的
b. 霊感-聖書が語っているものは、「もし神が直接に語られるとしたら、まさしく神が語られるであろうものである。」ことを保証
c.
照明-聴衆の理解とか聖書の読者を照明し、その意味の理解をもたらし、その真理と神的起源の確かさを創造する「聖霊の内的働き」
i. 聖書-私たちへの「神の語りかけ」であるかのように-聖書の「意味の理解、神的起源、著作性の確信」が大切
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第七章 神の言葉の力ー権威、第一節 宗教的権威、76頁、左段1行
https://youtu.be/CzPOpW_no0c
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1. 権威-「信条・行為」を要求すべき権威を意味
a. 今日の社会-かなりの「論争」を起こしている主題
b. 最終的な「その人自身」の判断の受け入れ-「外からの権威」は認知・従順をしばしば拒否
i. 「個人の判断」が主張される宗教の領域-強い反体制派の存在
ii. 例えば-多くのローマ・カトリックの人たちは「無謬なものとしての法王の権威」の伝統的な見方に疑問
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2. 信条・行為を規定する権威-Where?
a. 信条・行為を規定する権利を所有する-「人物」「組織」「文書」はあるのか?
i. もし、「至高の存在者」が存在-「何を信じ、どう生きるべきか」を決定する権利を所有
ii. 神-宗教的な事柄において「究極的権威」-信条・実践の基準を確立する権利
b. 神-直接のかたちで権威を行使されない-「聖書」という書物を創造することにおいて「権威」を委任
i. 聖書-神のメッセージを伝達-神が直接話された場合と同様-「神ご自身が命令」と同じ重み
2021年1月31日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇3篇「多くの者が言っています『彼には神の救いがない』とーしかし主よ」
https://youtu.be/RnwLA_jM8Lg
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今年から三年計画で、『詩篇』傾聴シリーズに取り組んでいる。長丁場なので、マンネリ化しないか心配でもある。しかし、歴史的過去に歌われた詩篇を、私たち自身の現在に“実存化”する実験室と捉えると楽しみな三年間でもある。
H.G.ペールマンは、神学に関し、それは「中立的な学問足りえず、むしろただ“実存的にのみ”関わりうる学問である」という。なぜなら、神はあらかじめ「神に捉えられることなしには理解しがたい」からである。したがって、前もって「神と語った時にのみ」神について語りうるのである、という。
C.ヴェスターマンは、その著書『詩篇選釈』で、詩篇は要するに「嘆きの詩篇とほめたたえの詩篇」に整理できるという。それは、水平の人間間の出来事ではなく、“垂直の”神と人間の出来事であるという。それゆえ、私たちが詩篇を味わうという場合、私たちの過去・現在・未来の種々の出来事の中に、“重ね絵”のようなかたちで“再現”されるべき「嘆きとほめたたえ」が生起する。
『詩篇』傾聴とは、いかなる事態なのだろう。それは、いわば、詩篇に存在する神と人の間に生起した“嘆きとほめたたえ”の構造のエッセンスを私たちの水平の出来事の只中に、“垂直”に掘削するエネルギーを迎え入れることではないのか。私たち自身、その存在、生きざまの只中に、いわば詩篇にある“嘆きとほめたたえ”の150のアプリをインストールすることではないのか。
携帯はアプリなしでは、ただの電話機器でしかない。しかし、豊富なアプリを取り込めば、それはドラえもんの“四次元ポケット”に変貌する。私たちは、三年かけて、この150のアブリを信仰生活の只中にインストールしていこうではないか。
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前書きに「ダビデの賛歌。ダビデがその子アブサロムから逃れたときに」とある。そう、この詩篇は、Ⅱサムエル記15-17章に記されている実子アブサロムによる、いわば「本能寺の変」の危機の只中で歌われたものである。私たちの人生には、「味方に背後から撃たれる、背中から刺される」というような危機的経験は少ないかもしれない。しかし、大小はあれ、多種多様な危機に直面するのが人生である。そのような危急存亡時に、この「アブサロムの変」のアプリは役立つ。過去に、現在に、未来にあるそのような出来事に“重ね合わせて”魂の奥底からの叫びとして、3:1「【主】よなんと私の敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいることでしょう」と嘆けば良い。大声で叫べば良いのである。絞り出すようなうめき声で嘆けば良いのである。
そこでは、3:2
「多くの者が私のたましいのことを言っています。『彼には神の救いがない』と」噂し、吹聴している人々がいる。人の心は“風見鶏”のようである。先日まで、ダビデ王万歳とほめたたえていた人々の口から、「ダビデは、羊飼いから、将軍となり、油注がれて王となったが、バテシェバ・ウリヤ事件(Ⅱサムエル11-12章)を起こし、神の信頼を失い、実子からのクーデターをくらうこととなった。もうおしまいだ。神はダビデを見捨てられたのだ」と。呪いと嘲りのことばが発せられる。神は、人の心を“川の流れ”のように変えられる。
しかし、ダビデは、詩篇32篇や51篇にみられるように、深く悔い改め、神の赦しの中にあった。ただ、悪しき影響は、国民、家臣のみならず、子どもたちの間にも浸透し、男女の関係は乱れ、「アブサロムの変」へと発展してしまった。“魚は頭から腐っていく”いわれる。ダビデは、打ちのめされ、「オリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、裸足で登った。彼と一緒にいた民もみな、頭を覆い、泣きながら登った」(Ⅱサムエル15:30)。その絶望や悲嘆、いかなるものであったろう。
恐怖、嘲り、攻撃、差し迫った死の渦中、ダビデは信用できる家臣たちだけと、エルサレムの宮殿を急遽離れ、荒野へと逃避した。そこは、かつて義父サウル王にいのちをつけねられわれた時期に慣れ親しんだ“ダビデの庭”隠れ家であった。そして、祈った。3:3
「しかし【主】よあなたこそ、私の周りを囲む盾。私の栄光、私の頭を上げる方。3:4
私は声をあげて【主】を呼び求める」と。ダビデには失敗もあったが、ダビデの王権は、神がたてられたものであった。それは逃れようのない”召命であり、使命”であった(Ⅱサムエル7:12-13)。それは、ダビデのものではなかった。神のものであった。ここが肝要である。
それは、私たちの愛してやまない「福音主義的福音理解」もまた同様である。私たちがこれらからの逸脱に対し、戦い、また回復のために尽力するのは私たちの個人的な私利私欲からではない。イエス・キリストの人格とみわざにより、神が立てられた「福音理解」のためなのである。それゆえ、ダビデの王位に対する攻撃は、神に対する攻撃を意味した。「彼には神の救いがない」としたことは、ダビデへの侮辱にとどまらず、「神に対する冒涜」でもあった。この点が、今日誤った運動や教えを扇動する人たちに見えていない本質的要素と思う。
「すると主はその聖なる山から私に答えてくださる」-真実な神は、真実な約束を語り、そしてそれを必ず完遂される。私たちは、それに積極的に参与し、その達成を見届けるのみである。ゆえに、祈り終えたダビデは、追撃隊に襲われる恐怖の只中で、その危険の外部にあるかのように平静かつ神の平安に守られ、包まれ、3:5
「私は身を横たえて眠りまた目を覚ます」。どれだけの軍勢が追ってくるのかは知れない。しかしダビデはすでに信仰によって先立って勝利した。「【主】が私を支えてくださるから。3:6
私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも」恐れることはない。ピリピ書に「4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。4:7
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」とある通りである。
この四年間、米国での、ディスペンセーショナルな、キリスト教・シオニズムの興隆、イスラエルでの大使館、ゴラン高原・入植地の併合等、トランプ氏はやりたい放題であった。良心的なキリスト教諸団体は批判的声明を発している。このような行為は、ユダヤ教ヒューマニズムにも、キリスト教ヒューマニズムにも反している。何よりも神の御心に反している。
それゆえ、わたしたちは、ストットやサイザーをはじめ良心的なキリスト教指導者たちの声に合わせて祈る。「3:7
【主】よ立ち上がってください。私の神よ、お救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪しき者の歯を砕いてくださいます。」と。誤った運動や教えの頬を打ち、彼らの運動の歯を砕いてください、と。彼らは、天使の装いをもって諸教会を訪れるが、現実的に、世界でなしてきたことには大きな問題をはらんでいる。私たちは、未熟な教職者によって扇動される運動や教えに翻弄されることなく、社会的・歴史的、倫理道徳的に、神の御心にかなった歩みの中にあるのかどうか、たえず検証が必要である。
多くの教会が誤った運動と教えに巻き込まれているが、3:8
「救いは【主】にあります」と告白し、誤りの影響下にある兄弟姉妹たちが、健全な福音理解を宿す教会へ回復されることを祈っていきたい。そのためにICIとしても、尽力していきたい。「あなたの民にあなたの(福音主義的「福音理解」の)祝福がありますように」と祈りつつ。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第四節
無誤性の定義、70頁、左段26行
https://youtu.be/pvsaoaP45hs
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• 無誤性とは‥
1.
文化とコミュニケーションの手段が、それが「書かれた時代に発展したレベルの光」において、それが「与えられた目的という視点」において正しく翻訳されるとき、聖書はそれが主張しているすべてにおいて完全に真実である。
2. この定義-絶対無誤説と限定無誤説の間に存在する「全的無誤説」の立場を反映
問題のすべてを取り扱う×-より明確に「無誤性」を定義する-問題の幾つかを取り除く助けとなる「原則と例証」に留意
*
1. 引用の資料源の正典性の保障ではない
a. 無誤性-記録されているもの×-断言され、主張されているもの○
i. 不敬虔な人々の「偽りの陳述」を記録-「正しく記録されている」ことを保証しているのみ
b.
聖霊による霊感の下に話さなかった人々の陳述-使徒行伝7章のステパノのスピーチ-聖霊に満たされていたが、霊感されていなかった-年代の陳述は必ずしも「誤り」から自由ではない-パウロやペテロでさえ
i.
どのような資料から、いかなるものでも-聖書記者により取り上げられ「主張」「メッセージ」として組み込まれるとき-単なる記録×、真実なものと判断○
c. 引用の資料源の「正典性」の保証ではない
i.
正典ではない二つの書物への「ユダの言及」-エノク書とモーセの被昇天の書-旧約聖書に含まれるべき神に霊感された書物とは言えない
*
2. 直説法以外の叙法へのどんな適用が可能なのか
a. 聖書-主張とともに、問い、願い、命令
b. それらは、通常-「真実であるか、偽りであるか」判断されることはない-無誤性は適用できるのか?
*
3. 引用における正確さの水準が1世紀に存在していただろうか?
a. 表現されていた「文化的状況」において-その陳述が「意味されていた範囲内」で「聖書の真実さ」を判断
i. それ自身の「文化の様式・基準」の範囲内で-聖書を判断すべき
b. 古代において「数」-象徴的に使用
i. 親が選ぶ名前も-「特別な意味」をもっていた
*
4. 正確さは、著述の目的に依存している
a. 聖書の主張-「書かれた目的」に一致して判断されるとき「十分に真実」
b.
「9476人が集まった戦い」という仮説-10000は正確なのか?9000,9500,9480,9475はどうか?9476だけが正しいのか?
c. 回答-「著述の目的」に依存している
i. 将校の上司への報告のケース-公式の軍隊の文書、脱走兵の数の確認のため-正確でなければならない。
ii. 説明の意図が「戦いの規模」についての理解-「およそ10000くらい」が適切
d. 第二歴代志4:2の「鋳物の海」
i. 正確な複写を構成する計画-正確さが必要
ii. 単に対象物についての考えを伝達すること-「概数」は充分であり、充分に正しい
*
5. 年収はいくらか:友人の問いと税務署の問い
a. 概数-私たちの文化でありふれた「慣例」
b.
昨年の事実上の年収総額「50118.82ドル」と仮定-「昨年の総収入はどうであったか?」との問い-「5000ドル」との答え
c. 友人との生活費についての日常的会話-正しい
d. しかし、税務署の署員による質問-真実を話していない
*
6. 数字だけではなく、歴史物語においても
a. 何が真実であるか-「著述の目的」が考慮される必要
b. 「数字」のみでなく、「福音書において修正されている歴史物語」でも
i. ルカ-「栄光は、いと高きところに」-異邦人の読者により適切な意味をもつ表現
ii. マタイとマルコ-「ホサナ、いと高きところに」
c.
テキストに対して「不誠実」との責めを受けることなしに-今日説教者によって使用されている「拡張・縮小」すら-聖書記者によってなされている
*
7. 科学的なサークルでさえ、「日の出」と言う
a. 歴史的な出来事・科学的な事柄の記録-「科学的な言語」よりも「現象的な言語」でなされている
b. それは-「物事がどのように見えたか」を聖書記者が記した
c. 夕方のニュース「日の出」の時間-「明朝、太陽は朝6:37に昇ります。」
d. 厳密な科学的な立場-天気予報官は「あやまち」を犯したことになる
e. というのは-太陽は「動かない」で、地球が「動いている」のだから
f.
「科学者のサークル」においてさえ-「日の出」というのは慣用句-その用語を日常的に使用-しかし文字通りには受け取っていない
g. 聖書の記録-同様-「科学的に正確である」ようには努めていない
h.
実例-エリコの壁の崩壊、ヨルダン川のせき止め、斧の頭を浮かせたこと-事実上、起こった出来事を「理論化」しようとしていない
*
8. すべてのデータを手にしたら解決されるから、残りのデータを待つのがよい
a. 聖書テキストを説明することの「難しさ」-「誤り」を示唆していると「速断」すべきではない
i. あまりにも急いで-その「問題の明確な解決」を得ようと試みるべきではない
b. もし私たちが「全てのデータ」を入手したら-その問題は「解決」されうるとの確信をもって-「データの残り」を待つのが良い
i. あるケースについては-そのデータはもたらされないかもしれない
c. しかし、傾向としては-データがもたらされることにより「困難の解決」に向かっている
i. イザヤ20:1
「サルゴン」という未知の人物-一世紀前の「難しい問題」のいくつか-「満足のいく説明」がなされるように
*
9. ユダの自殺の描写:「プレネース」の解釈
a. 「ユダの死」に対する困惑-マタイ27:5 「ユダは首をつって自殺した。」
b. しかし、使徒1:18 「まっさかさまに落ち、からだは真っ二つの裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。」と陳述
c. 使徒行伝の特別なギリシャ語「プレネース」-長い間「まっさかさまに落ちる」ことのみを意味していると理解
d. しかし20世紀における「古代の写本」の研究-コイネー・ギリシャ語で「膨張する」の意味もあるとの発見
e.
ユダの生涯の最後についての仮説-首をつった後、ユダはしばらく発見されなかった。内臓の器官は膨張を引き起こし、変質しはじめる、その結果
*
【付随的問題】
1. 「無誤性」という用語は適切か?
a. 「正しさ」「誠実さ」「当てになる」「信頼性」-「特性」の意味合いであって、より詳細な「正確さ」暗示されず
i. 「無誤性」の使用は賢明である
b. 新保守主義の人々-「聖書は無誤である。しかし、これは誤りがないということを意味しているのではない。」
i. その言葉を使用するとき-その言葉の「意味するもの」が何であるか-注意深い説明が必要
*
2. 「誤り」ということにおいて何を意味しているのか?
a. 言葉の「無限の伸縮性」があるなら-もう少し、もう少しと-事実上何もなくなってしまう
b. 「誤り」と考えられるものは何か-明らかに事実に矛盾しているもの=誤り
i.
もし、イエスが十字架で死なれなかったのなら、もし彼が湖の嵐を鎮められなかったのなら、もしエリコの壁が壊されなかったのなら、もしエジプトの重荷から解放されず、荒野に出発しなかったのなら-そのとき「聖書」は誤りである
*
3. 無誤性は「原典」のみに、派生的な意味で翻訳にも
a. 厳密な意味で「原典」のみに-「写本」「翻訳」に対しては「原典を反映している程度」において適用される
b. カール・ヘンリー-「だれも無誤の原典を見たことがない」
c. パウロも-当時の70人訳はひとつの翻訳であったが-聖書はすべて霊感されていると書き送ることができた
4. 正しく解釈されるとき、教えているすべてを信頼しうる
a. 多くの誤った概念・意見があふれている世界-聖書=確実なガイダンスの源
b. 正しく解釈されるとき-それは「教えているすべて」において信頼できる
c. それは-確実で、信頼でき、当てにしてもよい「権威」である
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第三節
無誤性と現象面、②多くの種類の問題ある箇所、69頁、右段24行
https://youtu.be/OHBqkhfODwM
*
2. 問題のある箇所の存在:年代、数、他
a. 多くの「問題のある箇所」
b. 世俗の歴史への言及、科学の主張-明らかな矛盾を含んでいる
c. 並行箇所の矛盾-旧約のサムエル記、列王記、歴代志、新約の福音書
d. 年代、数、他の細目の事柄、倫理的な矛盾
*
3. ウォーフィールドとビーグルのアプローチ
a. ウォーフィールド-聖書の無誤性の教理的教え-「事象」は事実上、無視可能
b. ビーグル-問題のある「事象」-聖書の無誤性への信仰を「破棄」するよう要求
c. ゴーセン-説明の幾つかにより、「不自然」であると思われる「相違」を調和させること可能
*
4. もしすべてのデータを手にしたとしたら
a. それらのアプローチ-満足のゆくものなし-穏健な「調和」の道に従うことが賢明
b. 「利用可能な情報」-もっともらしい説明に道をゆずる場所において「問題」は解決
i. 問題の幾つか-完全に理解するには「十分な情報」に欠落
c. しかし、もし私たちが「すべてのデータ」をもったとき-その「問題」は消えうせる
i. それゆえ、聖書自身の主張を基盤に「無誤性」を主張し続ける
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第三節
無誤性と現象面、①聖書記者たちの教え、69頁、右段12行
https://youtu.be/Ttq13vagqYQ
*
1. 聖書の実際の事象をみる
a. 聖書の「無誤性」における私たちの信仰-聖書の「すべての性質」の吟味×-霊感に関する「聖書の教え」を基盤○
b. 聖書の「性質」何であるのか?-聖書がどんな「方法」で誤りなく教えるのか-正確に告げていない
c. 聖書における「実際の事象」をみる必要
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第二節 無誤性の重要性、第二項
歴史的重要性、69頁、右段24行
https://youtu.be/_4zNRMk-Dj8
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5. 認識論的重要性
a. どのように「知る」のかという問題
i. 私たちの「基盤」=聖書がそれを教えている-聖書の主張のすべてにおいて「真実さ」
ii. 聖書が教えている提示-「真実でない」と結論-神学的提示への意味合い-広範囲に
b. 聖書により教えられ・断言されているすべての事柄の「真実性」-放棄される程度において「教理のための他の基盤」必要
i. 宗教哲学、宗教心理学、科学の神学、関係論的オリエンテーション
c. 「代替案」を基盤とする形式-教義のリストの縮小をもたらす
i. 「哲学的議論、対人関係のダイナミクス」を基盤に-三位一体、キリストの処女降誕を「確立」すること不可
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第二節 無誤性の重要性、第二項
歴史的重要性、68頁、右段29行
https://youtu.be/cOCH0zQCjEw
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4. 歴史的重要性
a. 教会-「歴史的に」聖書の無誤性を主張-教会史を通じて「聖書への完全な信頼」という一般的な信仰が存在
i. 無誤性についての「一般的な理解」-最近発展したものではない
b. 無誤性の破棄-教理の「他の領域における意味合い」に影響
i. 通常-教会が重要と考えてきた諸教理-破棄したり、変えたり
c. 歴史-神学がその思想を検査する「実験室」
i. 聖書への信仰からの「逸脱」-ひとつの教理のみならず、他の諸教理にて生起する問題として「重大なステップ」
ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章
聖書の預言をどのように解釈すべきか、⑨この原則の有効性の立証ー⑴メシヤ預言→⑵終末論、8頁、12行
https://youtu.be/NIxTnLRq0ls
2021年1月24日 旧約聖書
『詩篇』傾聴シリーズ 詩篇2篇「主に油注がれた者に対してー我を“マクヘンリー砦”に遣わしてください」
https://youtu.be/uuCosoo0Qkc
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1月21日、米国で大統領就任式が無事行われた。“And the rockets' red glare, the bombs
bursting in air, Gave proof through the night that our flag
was still there, Oh, say does that star-spangled banner yet
wave ?” 「砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中 我等の旗は夜通し翻っていた
ああ、星条旗はまだたなびいているか?」ー二週間前、前大統領によって扇動された暴徒によって占拠された国会を見上げ、翻る星条旗を指さしてレディー・ガガさんが熱唱された。感動的なシーンであった。
それは、その歌詞の由来と今回の事件と重なって見えたからである。その由来を説明しておきたい。
星条旗(英語 : The Star-Spangled
Banner)は、アメリカ合衆国の国歌。歌詞は、1814年9月に当時35歳の詩人・弁護士のフランシス・スコット・キーによって書かれた。1812年に始まった米英戦争のさなかの1814年9月、ボルティモア(メリーランド州)のマクヘンリー砦での事である。フランシス・スコット・キーは、友人である医師を含む捕虜の交換交渉のために英国の軍艦に乗り込んだ。英国側の司令官は、最終的にはキーもその友人も解放することに同意した。しかし機密保持のため、英国艦隊が砦を砲撃する間、2人は軍艦内で抑留される事となった。激しい夜間砲撃の後、9月14日の夜明けを迎えたキーらは曙光の中で、砦の上に星条旗(その当時は星15個、縞15本)が翻るのを目にする。激しい砲撃にも砦が死守された事に感銘を受けたキーは、直ぐさま「マクヘンリー砦の防衛」という詩の着想を得、持参していた手紙の裏に書き留めた。
ガガさんの感動的な歌唱を聴きわたしは思わず「一宮基督教研究所(ICI)よ、マクヘンリー砦ようであれかし !」と願った。
*
今朝の詩篇は、ダビデ王の就任式の即位の詩篇と言われている。しかし、それは時代を越えてキリストのみわざ(贖罪・復活・昇天・着座・支配)を予表する箇所(ローマ1:4、使徒2:30-33、13:33-35、ヘブル1:1-14)として使徒たちによって解釈されている。「イスラエル民族を軸とした誤った解釈」とは異なる、このような「イエス・キリストの人格とみわざを軸とする解釈」は、デレク・キドナーやジャン・カルヴァンの詩篇註解に見られる。
ICIでは、詩篇の150篇を三年がかりでこのような視点から“傾聴”し、わたしたちの今日の“状況”に適用していくよう導かれている。それは、説教の『生産的ないし新理解的機能』のゆえである。伝統的関連以上に重要なのは、説教の状況的関連である。それは聖書的・教会的教えをただおうむ返しに語るのみでなく、むしろ新しく語られねばならない。伝統をただ単に要約するにとどまらず、新しく理解しなければならない。それは“かつてそうだった”と語るのでなく、むしろ“現在こうである”と語るのである。いわゆるコンテクスチュアルな説教の必要性である。
「説教は適用から始まる」といわれる。至言である。聖書から“イガグリ”の外皮をそぎ落とし、メッセージの本質を抽出し、その本質を今日の状況に“共鳴”させるのである。聖書の使信の不可変性は、死せる、無表情の、無味乾燥な画一性のことではない。聖霊はみことばの記者たちの個性と文化とを用い、その一人ひとりを通して事柄を新鮮かつ適切に伝達されたように、今日においても「ご自身の真理をそれぞれ自分の目をもって新鮮に理解させるために、あらゆる文化の中にある神の民たちの心を照明する」(『ローザンヌ誓約―解説と注釈』「誓約・第二項
聖書の権威と力」注釈)。
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私たちは、詩篇第1篇を「福音主義」の清流の流れのほとり植えられた木とされることの祝福として傾聴した。2篇はその続きである。
v.1-3
「主に油注がれた者に対して」とある。ダビデは王に任職された。しかし、彼の周囲には彼を貶めようとする国々、王たちが溢れていた。キリストも、当時の宗教指導者、律法学者、パリサイ人等から攻撃を受けていた。使徒たちもユダヤ教徒からの迫害に直面した。私たちも、ファンダメンタルで、ディスペンセーション主義的な「福音理解」の中に救われた者が、健全な「福音主義」の福音理解に改革しようとしていくとき、類する経験にあずかる。
v.4-9
しかし、「天の御座に着いておられる方」は、その者どもを嘲ってられる。激しく怒っておられる。ダビデは主によって立てられた王であった。しかし、「わたしがわたしの王を立てた」と言われたところで、「主は私の主に言われた『あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。』」(110:1)を引用し使徒2:34-36では、キリストの予表であると解釈されている。主の定めとして、「あなたはわたしの子、わたしが今日あなたを生んだ」(使徒13:33)と引用・解釈される。ダビデ王の任職・油注ぎは、キリストの贖罪・復活・昇天・着座・支配に直結して理解される。「国々」は「地の果て果てまで」と、アブラハムへの創世記15:8の約束は、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで」(使徒1:8)と拡大される。これは、今日の「旧約次元の土地、首都エルサレム、第三神殿」に固執する誤った運動や教えに適用すると、それらの古い皮袋は「陶器師が器を砕くように粉々に」される。
v.10-12
それゆえ、今日誤りの中にあり、虚構と虚像の中で中東を不安定にさせる運動や教えに熱心な主唱者たちに「悟れ、慎め、仕えよ」そして、「おののきつつ震え、子に口づけせよ」と勧められる。わたしは、「福音主義的な福音理解」への恭順の勧めと解釈・適用する。マルティン・ブーバーというユダヤ教シオニズムの人の本を読んで教えられた。彼は、「国家的ナショナリズムに走っていくシオニズム運動から離れ、ユダヤ教ヒューマニズムを大切にする」よう勧めている。「土地、首都、神殿」のユダヤ教シオニズムが、キリスト教シオニズムの支援の下、その極限にまで進んでいくと、アッシリヤ捕囚、バビロン捕囚、ローマ帝国によるエルサレム崩壊、等々に続く国家的災難に行き着くのではないかとの懸念すら示している。
虚像や虚構に扇動された運動や教えは、悲惨な結果を刈り取る。昨今の、アメリカ国会議事堂占拠事件は、前大統領の「偽情報と偽のシナリオ」に踊らされた愚かな暴徒になされた。もしかしたら、前大統領は「エリツィン大統領による国家奪取の戒厳令」に望みを賭けていたのだろうか。しかし、それは空しい企てで終了した。今、前大統領と暴徒は「蒔いた種を刈り取ろう」としている。弾劾裁判と次期大統領選への道の阻止である。わたしは、アメリカ人の良識が最後の一線で守られたと感じている。もしそのような企てが成功していたらと背筋が寒くなる。
さて、国家の歌詞の由来は以下の通りである。
1814年9月13日、米英戦争中、チェサピーク湾に侵入してきたイギリス海軍の艦隊が、ボルティモア港を攻撃してきた。マクヘンリー砦は、重要な港を守るために湾の入り口に造られていた。その日の夜明けに始まったイギリス艦隊の艦砲射撃は激しい雨の中、25時間続いた。イギリスの艦隊は海中に張られた鎖、砦の大砲によって、砦の横を通り過ぎることができず、港の中に入れなかった。しかし、砦に近づいてロケット弾や迫撃砲弾を撃ち込むことはできた。イギリス軍は9月14日まで攻撃をやめなかったが、砦の兵士たちの奮闘により、イギリス海軍によるボルティモア侵攻は食い止められた。
捕虜解放交渉に来ていた弁護士スコット・キーは、9月14日の朝、無傷で翻る国旗を見た時、大変心を動かされ、手紙の裏にこの詩を描きとめた。
「おお、見えるだろうか、夜明けの薄明かりの中。我々は誇り高く声高に叫ぶ。危難の中、城壁の上に、雄々しく翻(ひるがえ)る太き縞に輝く星々を我々は目にした。砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中、我等の旗は夜通し翻っていた。ああ、星条旗はまだたなびいているか?自由の地 勇者の故郷の上に!」
神は、現在、マクヘンリー砦にこもって戦った兵士のような信仰者を求めておられるのではないか。この歌の意味を知った時、混乱の四年間から米国と世界を救うために、戦った勇者たちがいたことを知った。また、私たちも、「だれをわたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」(イザヤ6:8)の声を耳にしている。「ここにわたしがおります。わたしを“神学的な意味での”マクヘンリー砦に遣わしてください」と再献身させられたい。そのような思いにかられた就任式であった。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第二節 無誤性の重要性、第一項
神学的重要性、68頁、右段3行
https://youtu.be/eEGT6VEV5vo
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3. 神学的重要性
a. イエス、パウロ、主要な新約の人物-「権威あるもの」とみなし、「聖書の詳細」を利用
i. テキスト内の「細部の選択」においてさえ-完全に神によって「霊感されたもの」
b. 神が「全知」であるなら-彼はすべてのことを「知っておられる」
i. 神が「全能」であるなら-彼は聖書記者の著述に「影響を与える」
ii. ゆえに、最終的な著作-「誤り」が入りうる余地なし
c. 真実かつ誠実な存在者-人間が誤って導かないような方法において「能力を発揮」することを望まれる
i. 霊感についての私たちの見方-論理的にも「聖書の無誤性」を必然的に
ii. 無誤性=「十全霊感」の教理の結実
【再開】ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ
https://www.youtube.com/watch?v=Ita9hrLvKi8&list=PLClE1DIlx0omiukHRgQIhbdQOOL4BiFwI
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20201127の「ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ、第一章 聖書の預言をどのように解釈すべきか、⑧
啓示の漸進性を認識し、旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈する、9頁、4行」のショート・レクチャーをもって、約二ヶ月お休みしていた。アドベントークリスマスと新年の二つの奉仕「百万人の福音」の終末論に関するQA原稿依頼と生駒聖書学院での最終講義(ブルーレイ6時間)収録のための時間確保のためであった。
その奉仕も、昨日ようやく終わった。原稿とBD-Rを送付できたのである。それで、「ラッド著、安黒務訳、信徒のための『終末論』シリーズ」も少しずつ再開していきたいと願っている。この間、直接また間接に幾つかの質問も受けてきた。それらの質問にも丁寧に応答するかたちで、このシリーズに取り組んでいきたい。
再開に際して、これまでの「信徒のための『終末論』シリーズ」ショート・レクチャー全編を順序よく学べるサイトを紹介しておく。全編を繰り返し傾聴し、このテーマで思索すべきことが何なのかの“ツボ”をよく抑えて学んでいただければ、幸いである。「ディスペンセーション主義」問題で、わたしが一番関心のある課題は「鹿を追う者、森を見ず」というポイントである。
この議論を「マクロな、鳥観図的視点から考える」ということを常に考えている。細部に目を留めすぎると全体を見失うのである。原理・原則的なこと、前提を構成している問題をしっかり考える。徹底的に思索する。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、その”根源的な問い”を考え抜く、ということを学んでいただけたら幸いである。
そうそう、今年から、詩篇研究に取り組みたいと考えている。以前から取り組みたいと考えていたが、そのきっかけがなかった。昨年は、『旧約聖書
『ヨブ記』 傾聴: 安黒務 説教備忘録
(礼拝説教集)』(アマゾン書店キンドル版)が思いの外、売れた。ヨブ記の苦悩を、人間の苦悩、実存的苦悩を理解することを学んだシリーズである。扱いながら、苦しみを背負って生きている多くの兄姉のことが心にあった。彼らと共に苦しみ、共に泣きながら語り続けた42章の長丁場であった。
兵庫の山奥の小さなチャペルで語った、このようなヨブ記傾聴を多くの方が読み、また傾聴してくださることは大きな喜びである。それで、42.195kmのマラソンのようなヨブ記に続き、箱根駅伝のような五巻150章の詩篇にも挑戦したくなった。タスキをつなぎながらの走りとなるだろう。途中でリタイアするかもしれない。だが「千里の道も一歩より」である。「案ずるよりも生むがやすし」である。とりあえず走り始めることにした。
信徒のための『キリスト教教理入門』、信徒のための『終末論』、信徒のための『詩篇』傾聴の三つのシリーズを、ひとつのテーマをもって重ね合わせつつ、追いかけたい。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第二節
無誤性の重要性、序、68頁、左段7行
https://youtu.be/BhzZGV-xUfI
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1. 無誤説は聖書的な概念か?
a. 教会-なぜ「無誤性」に関心をもつべきなのか?
b. ある人たち-「不適切」「偽り」「逸脱」させる事柄
i. それは「否定的な用語」-聖書描写の「積極的な用語」とかけ離れている
ii. それは、「聖書的な概念」ではない-「間違った方向」に導き-「小さな矛盾」解決にエネルギー消耗
*
2. もし聖書がそれを語っているとしたら
a. その問題を「無視」し「仲良く」やっていく-いいことではないのか
b. 田舎の教会の会衆の関心-『もし聖書がそれを語っているのなら、私はそれを信じることはできませんか?』
c. 聖書の信頼性-神学的・歴史的・認識論的に重要な事柄
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第一節
無誤性についての多様な概念、③限定的無誤性、67頁、右段24行
https://youtu.be/Nm0VjBVELIM
*
③限定的無誤説-「救いの教理の箇所」のみ=聖書は誤りなく・無謬
a. 鮮明な相違の描写-「啓示された事柄-非経験的なもの」と「自然な言及-経験的なもの」
b. 聖書における科学的・歴史的言及-聖書が書き記されたその時代に流行した理解を反映-聖書著者-その時代の制限に従属
c. 啓示と霊感-通常の知識を超えて「著者たち」を高めなかった-科学と歴史は啓示されず-結果として「誤り」を含むものに
d. 聖書-科学・歴史を教えること意図せず-聖書が与えられた目的において十分に正しく・誤りがない
2021年1月17日 新約聖書 Ⅱテサロニケ書3:1-18「しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい」
https://youtu.be/dXF2HQYq82Q
*
「健全な終末論、健全な再臨理解」と題して、Ⅰ・Ⅱテサロニケを学んできた。1世紀のテサロニケ教会の置かれていた状況とパウロの語りかけに目配りしつつ、21世紀の日本の教会の直面している事柄への洞察を傾聴しようとしてきた。折しも、「聖書フォーラム」への信徒流出問題が飛び込んできた。十年前にこの問題が萌芽の状態の時に、問題には気がついていた。そして声を上げた。所属団体と母校を「神の二つの民、神の二つの計画」という誤った教えのウイルスから守るためであった。しかし、理事会から「有名な先生に対する誹謗中傷をやめなさい」と厳しい警告を受けることとなった。しかし、わたしたちの団体は寛容であり、警告とともに同時に「釈明の牧師会講演と質疑」の時を与えられた。
あのとき、若手の教職者には積極的に「神のひとつの民、神のひとつの計画」という”
神学的ワクチン”を接種してもらえたように振り返る。大げさに思えるかも知れないが、「九死に一生を得た」のである。わたしは、これで所属団体と母校が、「神の二つの民、神の二つの計画」という誤った教えのウイルスから守られた。少なくとも免疫をもった教職者層をつくることができたと確信した。それが、この十年間の取り組みの出発点であった。しかし、他の団体、他の教派・教会・神学校には、ラッド著、安黒務訳『終末論』や安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ・Ⅱ』の提供という間接的なソフト・アプローチしかできなかった。その結末が、この一ヶ月で知った”聖書フォーラムへの信徒の大挙流出”
という深刻な問題状況である。いつの間にか「神の二つの民、神の二つの計画」という誤った教えのウイルスは、全国に、あらゆる教派に広がってしまっていたのだ。
今の反省は、十年前からずっと取り組んでいたことをもっと早期に、この誤った教えに対する”神学的ワクチン”として大々的に提供してこなかったのか、被害は最小化できなかったのか、と悔やまれる。しかし、誤りを正すのに、遅すぎることない。「二つの神の民、二つの神の計画」をテーゼとするこの誤った教えが「聖書フォーラムへの信徒流出」問題を引き起こしている今こそ、「神のひとつの民、神のひとつの計画」という”
神学的ワクチン”を接種していただく時である。アマゾン書店やICIの最近の購読・購入データは、「いかに諸教会が、この神学的ワクチンを求めているか」を示している。ICIにおけるこの十年間の労が報われるときが来たのだ。そのような感を強くしている。
*
1章で、テサロニケの教会は苦難の只中で信仰と愛において成長していた。2章で、誤った教えを避け、健全な福音理解における成長を励ましている。そして今朝の3章で、健全な倫理的生活を励ましている。
v.1-3で、悪い者から守られ、主のことばが速やかに広まるよう祈っている。悪い者とは、ユダヤ人や異邦人からの迫害である。ユダヤ教の習慣から離れたり、偶像礼拝の習慣から離れる時、そこに軋轢が生じる。また、教会に働きの中には、誤った教えを「他のどこにもない新しい教え」のように吹聴する未熟な大衆的教職者もいる。笑わせたり、泣かせたり、面白い話の中に、そのような教えの種を混入させ、感染させていく。パウロはそのような教えや運動に気をつけなさい。識別しなさいと繰り返し語りかけている。
v.6-11で、パウロたちは「夜昼、労し苦しみながら」働いたと述べている。怠惰をさけるよう助言している。パウロは「働き人とその働きから報酬を受けるべきである」とされる権利(Ⅰコリント9:18)を行使しなかった。そこには深い意味が教えられている。
パウロは十二使徒筆頭のペテロにも毅然と立つ、その「神のひとつの民、神のひとつの計画の福音理解」の”純度”を守った最強の奉仕者である。このようにいうのは、今日ポストやサラリーの保持のために、信念を曲げ、「風見鶏」のように周囲のご機嫌を伺いながら奉仕生涯を送る教職者が多いからである。彼らは、教会成長や経営のことしか眼中にない。健全な福音理解に立つことをそれほど重視しない。先輩の教えや協力関係にある教派・教会の意向を絶妙にくみ取って、「福音理解」を曲げたり、くねらせたりすることが得意である。「木、草、わら」の奉仕である。パウロがいなかったら、「旧約聖書の影をもって、新約聖書は再解釈」されていただろう。「イエス・キリストの人格とみわざではなく、イスラエル民族を軸に聖書は解釈」されていただろう。しかし、パウロはそのようなあらゆる傾向に毅然と立ち向かった奉仕者であった。彼の力の源泉のひとつは、「ノーポスト、ノーサラリー」であった。サポーターからの介入を断ち切ることの意味を知っていた。お金のある所に支配力が働くことを知っていた。それを拒否する決意の表明である。彼は、御父、御子、御霊の三一の神以外に指示を受けいれる必要のない立場に自らを置き続けた。それこそがパウロ書簡の“純正さ”を保証している。今日、神学教師はある意味でそのような立場に身を置かないと使命を果たしえないのではないか。雇われ教師、お抱え教師が目に付く、軟弱さが目に余る時代である。
v.12-18で、パウロは「たゆます良い働きをしないさい」「しかし、敵とは見なさないで、兄弟として諭しなさい」と励ます。今日、わたしたちは置かれた状況、つまりある者は救われ、奉仕する環境がファンダメンタルで、ディスペンセーション主義であるかもしれない。宇田進、ラッド、エリクソン、牧田吉和、ストット等から学び続けていることのひとつは、そのような伝統の中の「古い皮袋」の中に新しいブドウ酒を注ぎ込むことで起こりうる葛藤である。それは発酵し、古い皮袋は張り裂けそうになる。そこで、新しい皮袋が必要となるのである。ときには、圧力がかかり、警告が発せられたりもする。しかし、主にあって、我々は「たゆまずに良い働き」を成し続ける義務がある。「神の言葉によって改革された教会は、神の言葉によって改革され続ける」使命がある。
それゆえ我々は、主のために、主の群れの将来のため、大小の犠牲を払うことを厭わない。我々は、先輩の先生に意見することもある。それは敵対しているのか、批判しているのかと誤解されることもある。しかし、我々は主にあって「兄弟として諭し」続ける。七を七十倍するまで諭し続ける。そのとき、我々は苦難を背負われた主の経験(イザヤ53章)に重なる経験にあずかりもする。それは我々の身に置いて、我々の奉仕生涯において明らかにされる“神の栄光”である。嘲りやののしり、むち打ちといばらの冠は“神の勲章”である。
私は、30年前に恩師宇田進師より聞いた“雷鳴の響き”―「この聖書解釈法(神の二つの民、神の二つの計画)は、健全な福音主義の聖書解釈法の内側にはありません」
を忘れない。そして今一度、晴れわたった空に突如として現れる稲妻のような鮮烈な雷鳴を、わたしの愛する兄弟姉妹たちに聞かしめようと決意している。それを聞いたことで、ある教職者は所属教派で苦境に陥るかもしれない。
しかし、「私たちは、彼らの苦境をみて決しておじけづくものではない。神の助けによって、わたしたちも、代価がどんなに大きくとも、断固として不正不義に立ち向かい、福音に忠実に生き続けるものである。私たちは、迫害は必ず起ると警告されたイエスのことばを忘れない」。(ローザンヌ誓約・第十三項
自由と迫害)
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する:⑤「古典的ディスペンセーション主義→改訂ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義」の初期の誤りの克服の歴史と今後の展開については、どうなのでしょう
?
*
「“古典的ディスペンセーション主義→改訂ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義”へと初期の誤りが克服されていった歴史の流れと今後の展開について」質問がありました。それで、それに関する関連書籍を紹介しておきたいと思います。わたしの訳したラッド著『終末論』の「訳者あとがき」p.181-184に簡潔に記していますポイスレス著『ディスペンセーション主義者を理解する』の翻訳が、下記サイトに公開されていますので、参考にしてください。
*
【ポイスレス著『ディスペンセーション主義者を理解する』Vern Sheridan Poythress,
Understanding Dispensationalists, Westminster Theological
Seminary, PA, 1986(インターネットにて公開)】の概要
• 著者紹介
• はじめに
• 用語定義・聖書の歴史的形態・ジョン・N・ダービーについて
• スコフィールドのディスペンセーション主義の特徴
• ディスペンセーション主義のヴァリエーション
• 契約主義神学の中でのいくつかの進展
• 代表的かしら性(REPRESENTATIVE HEADSHIP)
• 千年王国と万物の成就を巡っての意見の一致と相違について
• 単純な反論ではほぼ不可能
• いろいろな社会的要因
• ディスペンセーション主義の朋友との対話のために
• 患難期前携挙説にとっての問題聖句 1コリント15:51-53
• 「字義的“LITERAL”」解釈とは何でしょうか?
• 旧約聖書のイスラエルにおける解釈学的見地
• 予型(よけい)について
• ヘブル人への手紙12:22-24
• キリストにあるイスラエルの成就
• 追記―1993年
• 文献目録(BIBLIOGRAPHY)
*
※「上記の著書の追記―1993年」箇所を以下に抜粋紹介します。
*
【ディスペンセーション主義神学における新しい状況】
1987年の初版以来、私たちは、本書3章でみてきたような、修正ディスペンセーション主義そして「神のひとつの民」型ディスペンセーション主義の、さらなる進展を目の当たりにしています。特に、最新の発展具合を、Craig
A. Blaising and Darrell L. Bock, eds., Dispensationalism,
Israel and the Church (Grand Rapids, MI: Zondervan,
1992)の著書の中にみることができます。
*
【ディスペンセーション主義神学が最終的に行き着く港】
私は、彼らのこういった前進を嬉しく思っております。と言いますのも、これまで以上に聖書の真理を忠実に表現しておられるように見受けられるからです。また彼らの著書の中に表されている平和的・融和的な語調にも感謝しています。しかしながら、彼らのおかれている立場は、本質的に不安定なものです。長期的に見ますと、これらの方々は、今後、神学的に「古典的ディスペンセーション主義」と「契約主義プレミレニアリズム(歴史的前千年王国説)」との狭間に安らぎの港を見い出すことに困難を覚え、その不可能性を感じることだろうと思います。そして現在、これらの方々自身の見解の上に働いている力は、おそらく今後、ジョージ・E・ラッドの型に倣った契約主義プレミレニアリズムへと彼らを導いていくだろうと予測されます。
*
【分析と評価】by Aguro
ディスペンセーション主義を分析・評価する際に大切なことは、J.N.ダービーに発する「古典的ディスペンセーショ主義」を対象とし、クラレンス・バスの研究書をあたることが重要である。なぜなら、ディスペンセーション主義は、改訂につぐ改訂を繰り返し、内容の「福音主義化」が顕著であるからである。それなら、大丈夫なのではないかと思われる方もあるだろう。そう、ディスペンセーション主義の立場といわれる書物でも、健全度の高い本は山とある。
では、どこが問題なのだろうか。それは、J.N.ダービーに発する「古典的ディスペンセーショ主義」の前提“神の二つの民、神の二つの計画”にある。福音主義の前提は“神のひとつの民、神のひとつの計画”である。漸進主義ディスペンセーション主義では、その神学的前提において大きな変化が起こっている。そのことが、ウエストミンスター神学校のV.S.ポイスレスやトリニティ神学校のW.A.グルーデムの著作に記されている。
ポイスレスは、『ディスペンセーション主義者を理解する』の追記の最後に、「現在、これらの方々自身の見解の上に働いている力は、おそらく今後、ジョージ・E・ラッドの型に倣った契約主義プレミレニアリズムへと彼らを導いていくだろう」と予測している。この文章を、G.E.ラッド著、安黒務訳『終末論』のp.181-184「訳者あとがき」に記させていただいた。
戦争においても、神学においても、「マクロの戦略」が最も大切である。第二次世界大戦で、日本は「満州事変と真珠湾奇襲攻撃」でミクロの局地戦で勝利をおさめて、日本国内は勝利に沸き立った。しかし、日米の経済力の差を見失った戦争は悲惨な結果に終わることは最初から見えている。霊的生活と奉仕生涯において勝利をおさめるためには、「マクロの包括的戦略」で成功しなければならない。「ひとつの神の民、ひとつの神の計画」の教えと「二つの神の民、二つの神の計画」の教えの岐路に立った時、わたしたちは健全な教えの道を選択すべきなのである。ポイスレスが「ディスペンセーション主義者を理解する」で、下した結論はそこにあると思う。その意味で、ラッド著、安黒務訳『終末論』は、ディスペンセーション主義者の兄姉が、嵐の中で”誤り”に気がついた後に、港を探し求め、ついにたどり着く安全な港になると思う。わたしの周囲には、ディスペンセーション主義に影響された教職者、兄姉が溢れていたし、今もなおその中に置かれている方も多い。わたしは、彼らが「安全な港」にたどり着けることを願って、この本を翻訳したのである。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第一節
無誤性についての多様な概念、②全的無誤性、67頁、右段5行
https://youtu.be/DI53zB9D5js
*
4. ②全的無誤説-聖書し完全に正しい
a.
しかし、聖書の第一義的目的-歴史的データを与えることではないが、「それがなされている方法」において-科学的・歴史的に正しい
b. 宗教的・神学的・霊的メッセージの見方-用語についての「本質的相違」は存在しない
c.
しかしながら、「科学的・歴史的」な箇所の理解-まったく異なっている-「現象的」なもの-人間の目に映っているかたちで記録
d. 必ずしも「正確でない」-一般的な言及、概算値を含む通常の表現-それらは、「教えている方法」において正しい
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※6時間集中講義の"段落単位の紹介シリーズ"です。連続して視聴されたい方は、【ユーチューブ】内の「エリクソン著『キリスト教教理入門』朗読&解説」からこのシリーズの全編をご視聴していただけます。
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する:④「フルクテンバウム氏はどうなのか ?」
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「フルクテンバウム氏はどうなのか ?」―この質問は、20091006 ディスペンセーション主義問題 三部作シリーズ:③
JEC牧師会講演
「ディスペンセーション主義聖書解釈法の問題」をユーチューブ・サイトに公開したときに、受けた質問である。わたしは、「拙著『福音主義イスラエル論』(アマゾン書店キンドル版)の中の「A-2.
キリスト教シオニズムの諸形態」の四つの形態の中の“メシヤニック・ディスペンセーション主義”に分類されるようです。その詳しい分析と評価は、Stephen
Sizer, "Christian Zionism", "Zion's Chistian Soldiers
?"に記されています。参考にしてください。」と簡潔に応答させていただいた。
追加の質問は来なかったので、それで質疑応答は終了した。ただ、昨年末に「聖書フォーラム」への信徒流出問題が起こっていることをお聞きし、もう少し詳しい情報を提供するのが良いと考えた次第である。十年前のことになるが上記の講演の準備の際に、フルクテンバウム氏についても調べさせていただいた。分厚い著作も数冊購入し、目を通した。ネットを通して、経歴も調査させていただいた。そのときの研究資料が手元に残っている。詳細は下記のサイトにあるので参考にしていただきたい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Arnold_Fruchtenbaum
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わたしが注目したのは、「彼の学歴であり、彼の福音理解のルーツとアイデンティティ如何なるか」であった。彼の福音理解のルーツとアイデンティティを見つけたー「フルクテンバウムは米国に戻り、ヘブライ語と旧約聖書での研究を続けるためにダラス神学校に入学しました」とある。フルクテンバウム氏の神学的ルーツとアイデンティティは、基本的に”ディスペンセーション主義神学の牙城と言われたダラス神学校”にある。
そして「彼は1989年にニューヨーク大学で博士論文Israelology:The Missing Link in
Systematic
Theologyを完成させました。Fruchtenbaumは多くの本を出版し、多くの聖書研究を記録しています」とある。それで、彼のミニストリーの神学的基盤、福音理解の表明としての『イスラエル学』を読んだ。そして、面食らった。その著作の構成を見た第一印象は、「これは逆さま世界だ
!」「神学的退行現象の世界だ !」であった。
わたしが何故そのような印象を受けたのか。それは、雨は山々に降り、谷の渓谷を通り、田園を潤す。さらにそれらの小さな河川は合流を重ね、やがては大海に注がれる。そのように、優れた神学者たちのこのテーマの著作は、「古典的ディスペンセーション主義→改訂ディスペンセーション主義→漸進主義ディスペンセーション主義」へと初期の誤りが克服されていった歴史の流れを記録している。フルクテンバウム氏の著書は「海から川へ、川から山深い渓谷へ」と流れている神学なのである。健全な神学、福音理解として、神学の世界では知れ渡っている、健全な「契約神学」の種々のタイプをいとも簡単に否定し、すでに誤った教えとして広く知れ渡っている「ディスペンセーション主義神学」を健全な教えとして主張しておられるのである。少しでも神学に造詣のある者なら、一目瞭然である。それなのに、この誤った教えを中核に据える聖書解説、聖書塾、聖書フォーラムに傾倒する兄姉が続出し、教会から流出するのは、バイブル・スクール・レベルの基礎神学教育と地方教会の聖書教育・教理教育の脆弱さに原因があるのではないかと思わせられている。このような運動や教えに信徒が関わり始めたら、即座に”健全な神学的ワクチン”を注射すべきなのである。それが地方教会の羊を、オオカミの教えから守る牧師の役割なのである。今回の危機を、健全な福音理解とは一体何なのか、を牧師も信徒も再学習する機会とすべきと思う。
フルクテンバウム氏が学ばれたダラス神学校を含め、ディスペンセーション主義神学で有名であったグレイス神学校、タルボット神学校も、その指導的教授陣は、漸進主義ディスペンセーション主義へと移行されていると聞く。福音主義神学界の”自然な河川の流れ”に沿った展開である。しかし、大衆的なレベルの伝道者、牧師、神学教師とそれらの方に唱導される兄姉たちは、いまだにJ.N.ダービーに発する「古典的ディスペンセーション主義」とそれを色濃く反映している「改訂ディスペンセーション主義」に染まったままである。ディスペンセーション主義神学で有名であった神学校も知的レベルが高くなるに従って、それらの誤りの克服の取り組みを続けている最中で、誤った教えを非常な勢いと流布されている先生方もおられる。彼らが、健全な教えに目が開かれることを祈っている。健全化のために有益な神学的情報を漸次提供していきたい。
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(この問題で悩んでおられる方がありましたら、シェアないしコピーして紹介してあげてください !)
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、第一節
無誤性についての多様な概念、①絶対的無誤性、67頁、左段15行
https://youtu.be/bqEisAHbrQI
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2. 「無誤性」という用語-異なった立場の人々の間-「相違する内容」
a. 事実として-「名前」で適切に呼ばれるに価するところを超えてなされる主張
b. 無誤性-「最近の主要な立場」の幾つかを要約
3. ①絶対無誤説-「科学的・歴史的」の双方の事柄-かなり詳細な扱いを含む聖書-「完全に正しい」
a. 聖書記者たち-膨大かつ正確な-科学的・歴史的データ-与えるように意図-「明らかな矛盾」説明可能
b. 例:Ⅱ歴代志4:2「鋳物の海」-円周30キュビト、直径10キュビト-円周率3.14159倍なので正確でない
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する:③宇田進『現代における終末論諸説』講義ノートより
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ディスペンセーション主義の内包する問題について、はじめて目が開かれた講義です。それまで、ディスペンセーション主義をあまり深く意識していませんでしたし、問題意識は皆無という状態でした。宇田先生の「ディスペンセーション主義聖書解釈法」についての分析・評価は的確なものでした。それ以後、関心をもって多くのすぐれた神学書に目を通してきましたが、宇田先生の指摘の真実性を立証するものばかりでした。
それに比して、ディスペンセーション関係の書籍には、そのような議論のあることすら言及がないのが現実です。まるで、限られた情報の中で“マイント・コントロール”状態に置かれているかのようです。それは、きちんとした議論の俎上にあげられると、「ディスペンセーション主義聖書解釈法の誤り」が明確になるだけということからくるのかもしれません。以下に、その特徴を列挙します。
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1. ディスペンセーション主義とは、ひとつの「聖書解釈法」のことである。
2. 19世紀、英国の信仰復興運動の「J.N.ダービー牧師による教え」である。
3. 旧約預言の解釈において、「極端な字義主義」解釈をとる。
4. 聖書預言の未成就・成就をうるさく言い、預言を「予告」と混同し、今日の出来事と聖書預言を「短絡的に同定」します。
5.
イスラエルと教会を明確に区別することを土台として、「一体である再臨」を、空中携挙(聖徒のための秘密の再臨)と地上再臨(聖徒と共なる公けの再臨)の二重再臨に分けます。
6. 「一体である再臨の前に起こるはずの患難期」を、空中携挙と地上再臨の間に置きます。
7.
「患難期に地上にいるはずの神の民クリスチャン」を、携挙により天上にあるとし、地上にはイスラエルの民が患難期を通るとします。
8.
「旧新約を通じてひとつであるはずの神の民」を、イスラエル民族とキリスト教会の二つの民があるとし、旧約と千年王国の主役はイスラエル民族とし、キリスト教会は“臨時の挿入”とします。
9.
古典的ディスペンセーション主義では、聖書を七つのディスペンセーションの区別・分割し、それぞれの時代における神の取り扱いの原則が相違すると教えます。
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宇田先生の指摘は、上記の「ディスペンセーション主義の背景」を公平・中立のスタンスで、客観的に研究し、書物をしたためたC.B.バスの記述と同様の内容であり、すぐれた神学教師のレベルを明らかにするものである。このような客観的情報の基盤として、日本の福音派神学校の神学教育はなされるべきであると思う。
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【分析と評価】
上記の講義は、約30年前に、宇田進師より傾聴した素晴らしい講義である。この講義からのメッセージを昨今、生起している問題に適用してみよう。
「キリスト教伝道のゴールを『“理論的な解釈学”に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てること』であるとし、テレビ放送に向けたエネルギーを2008年に開始した“信徒訓練の場である聖書塾”の運営と、“塾生が全国各地で繰り広げる聖書フォーラム運動”のサポートへと方向転換」され、ここ十年間メシヤニック・ディスペンセーション主義に立つユダヤ人神学教師フルクテンバウム氏を看板に、大々的にキャンペーンを打ってこられた。わたしの所属団体や母校もそうであったが、果たしてこの「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」の新機軸の中身を正しく認識できていたのだろうか。それが問われている。
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漸次、健全な福音主義の教えと不健全な「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」の教えを対比し、信徒の兄姉を念頭に簡潔に解説していきたい。
※詳細な解説講義は、下記の一宮基督教研究所ユーチューブ・サイト参照
“http://www.youtube.com/c/AguroTsutomu”
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第六章 神の言葉の信頼性ー無誤性、序
聖書はその教えのすべてにおいて十分に信頼できる、67頁、左段1行
https://youtu.be/N_EYcFX0So4
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1. 論争の的となっている主題のひとつ
2. 古典的な見方?-Robert Webber ” The Younger Evangelicals ”
3. 注意深い研究の必要性
4. 聖書についての教理の完成を目指すもの
5. 聖書-啓示についての信頼できる資料であるとの保証
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、⑦派生的な意味で霊感されている、65頁、左段23行
https://youtu.be/eo5XnxRZX_k
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9. 書物-派生的に霊感
a. 霊感-「著者」と「書物」の両方に適用される
i. 第一義的に-霊感の「対象」は「聖書記者」である
1) しかしながら,聖書記者が-聖書をペンで書くとき-霊感されたものの特性-書物にも伝達
ii. 私たちは-霊感は-神の長期にわたる「著者の上への神の働きかけ」を前提にしている
1) このことは-「著者の準備」だけでなく-著者の「使用する材料」の準備も意味する
2) 厳密な意味において-霊感は「材料の保存・伝達」に適用されない
3) しかし、このプロセスをガイドする「摂理の働き」も見落とされてはならない
iii. 聖書-霊感されているゆえ-私たちは「神の教え」を手にしていると確信
1) 啓示的出来事と教え-与えられたとき-私たちは生きていなかった
2) 私たちには-「信頼できる道しるべ」がある
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する②この聖書解釈法は、健全な福音主義の聖書解釈法の内側にはありません
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「神学教育の改善、とりわけ教会の指導者たちのための教育の改善は急を要する。」教会が直面する諸問題は、基本的には常に神学的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につけることによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者たちを必要とする。このことは、教会の教師として「教える能力」(Ⅰテモテ3:2)のみでなく、「教えにかなった信頼すべきことばを、しっかり守り」、その結果「健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることのできる」(テトス1:9)ことを求められている牧師についても言える。(『ローザンヌ誓約
解説と注釈』ジョン・ストット、宇田進訳)p.98
*
前回、この問題の二重の側面を指摘した。既存の教会と超教派の運動「聖書フォーラム」の倫理的問題は、地方教会の牧師会の連携において解決が模索されているようである。一宮基督教研究所においては、神学的側面からこの問題の解決に尽力させていただきたい。
すでに問題は大きくなっており、名前を伏せる必要はなくなっている。「聖書フォーラム」への信徒流出問題とは、超教派でTV伝道「ハーベスト・タイム」を主宰しておられた中川健一氏が、支援を受けてきた諸教会の中に形成されたシンパ層を「ハーベスト聖書塾」で教育し、さらには「聖書フォーラム」として、“準教会的”な集まりとして全国的な形成を取り組まれており、そのことが諸教会から“ハーベスト・シンパ層”の、全国的なレベルでの流出をもたらしている現象のことである。すでに、被害を受けている教会や団体では深刻な問題となってきている。わたしの所属団体でも同様の現象が起こっている。「牧師の教えと中川健一氏の教えの相違が明らかとなり、教会に亀裂が走り、“ハーベスト・シンパ層”が流出している」とのことである。
“ハーベスト・シンパ層”の兄姉には、既存の教会の牧師の教えが間違っており、中川健一氏の新奇な教えが正しいと映っているようである。しかし、その判断は正しいのだろうか。公正・中立な立場から、丁寧かつ冷静な分析と神学的に説得力のある評価が必要とされている。
*
「ハーベスト・タイム」については、ウィキペディアの下記のサイトに簡単な説明が記されている。名称はヨハネ4:35「収穫の時」からきている。再臨運動を行っている。2010年に1.日本のリバイバル、2.ユダヤ人の救い、3.メシアの再臨をテーマとして、第一回ハーベスト再臨待望聖会が開催された。4月10日東京、14日沖縄、16日大阪。アーノルド・フルクテンバウム氏等を主軸に、イエス・キリストを信じるユダヤ人講師を活用している。ハーベスト・タイム・ミニストリーズの主筆として、ヘブル的聖書解釈による信徒訓練を目指して日々のディボーション・テキスト、『clay(クレイ)』を刊行している。2010年3月6日の放送にて、中川から「2010年3月末の放送をもって、テレビ番組の放送を終了する」との発表があった。基幹局である千葉テレビ放送では、2010年3月27日が最終回となった。公式HP上では、24年間続いた番組を終了した理由として、2011年の地デジ完全移行に伴う放送機材調達における費用対効果を問題として挙げるとともに、キリスト教伝道のゴールを「理論的な解釈学に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てること」であるとし、テレビ放送に向けたエネルギーを2008年に開始した信徒訓練の場である聖書塾の運営と、塾生が全国各地で繰り広げる聖書フォーラム運動のサポートへと方向転換する意欲を表している。
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【分析・評価】
「キリスト教伝道のゴールを『“理論的な解釈学”に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てること』であるとし、テレビ放送に向けたエネルギーを2008年に開始した“信徒訓練の場である聖書塾”の運営と、“塾生が全国各地で繰り広げる聖書フォーラム運動”のサポートへと方向転換」とある。
この経緯を観察・説明すると、分かりやすく軽妙な調子のキリスト教メッセージで全国各地に“ハーベスト・シンパ層”の形成期間(1986年1月
-
2010年まで)、2011年の地デジ完全移行に伴う放送機材調達における費用対効果の問題、このことを契機に上記の方向に転換されたと分かる。
この方向転換における“基本方針”に大きな誤りがある。『“理論的な解釈学”に基づく正しい聖書理解をもつ信徒を育てること』とあるが、その内容は「古いタイプのディスペンセーション主義聖書解釈法」である。
わたしが、「古いタイプのディスペンセーション主義聖書解釈法」の問題に気がついたのは、共立基督教研究所に内地留学していた時であった。それは『現代における終末論諸説』という講義の時であった。日本の福音派の代表的神学者のひとり、宇田進師は開口一番「ディスペンセーション主義とは、聖書解釈法のことです。この聖書解釈法は、健全な福音主義の聖書解釈法の内側にはありません」と語られ、その理由を丁寧に解説していかれた。多少なりとも、ディスペンセーション主義の影響を受けていた素朴な福音信仰の団体に所属していたわたしにとって「青天の霹靂」であった。
わたしは、素朴な福音信仰に立って、伝道と教会形成を重んじる「スウェーデン・バプテスト系諸教会にルーツをもつオレブロ・ミッション宣教師」によって形成された団体に所属し、その団体が主力となって運営する母校で学んだ。ファンダメンタルでディスペンセーション主義の影響を受けていたように振り返る。わたしは、信仰の初期を「キリスト者学生会(KGK)」の交わりの中で養われてもいたので、ジョン・ストット等にみられる福音派の主流の「福音主義」的な特質をも身につけていった。それが後の歩みに功を奏したように思う。
奉仕生涯の初期の、基礎神学教育課程の時期、母校では、時々「終末論のスペシャリスト」「黙示録の専門家」の触れ込みで、関係諸団体関連の宣教師が一週間の特別講義を行われたりもしていた。その内容は、ハル・リンゼイ著『地球最後の日』、ティムラヘイ共著『レフト・ビハインド』の黙示的ディスペンセーション主義の教えであった。教師タイプのわたしは、ルネ・パーシュ著『キリストの再臨』等も目配りしたりもしていた。ただ、その内容の複雑さには面食らった。まるで“迷宮”に迷い込んだようであり、「黙示録」や「終末論」はわたしにとっては長らく閉ざされた領域であり、書物であった。ただ、「我々の立場は、穏健なディスペンセーション主義の立場である」というようなぼんやりとした意識が植え付けられたいったように思う。
内地留学のとき、その“眠気”を覚ますような雷鳴が響いた。「ディスペンセーション主義とは、聖書解釈法のことです。この聖書解釈法は、健全な福音主義の聖書解釈法の内側にはありません」と。その時から、わたしの「ディスペンセーション主義聖書解釈法→ディスペンセーション主義教会論→ディスペンセーション主義終末論の克服」の旅は始まった。ベレア人のように「はたしてそのとおりがどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17:11)。その旅の道筋で、ファンダメンタルで、ディスペンセーション主義の誤りの修正・克服に取り組んだエリクソン著『キリスト教神学』、『キリスト教教理入門』、ラッド著『終末論』等を訳すという、“主からの”任務を引き受けることとなった。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、⑥遂行すべき任務を果たせるように、64頁、左段43行
https://youtu.be/jWiSVshE7Kc
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6. 霊的生活を通しての備え
a. 一般の異議
i. 「言葉の選択」にまで広げられた霊感-必然的に「口述」になるのか?
1) 非難に答える-「霊感のプロセス」を理論化の必要
(a) 聖書著者たち-信仰において「初心者」ではなかった
(b) 彼らは-神を知っており、神から学び-「一定期間」霊的生活を実践していた
(c) それゆえ、神は-家庭、社会、教育そして宗教的経験を通して「遂行すべき任務」に備えておられた
(d) パウロ-彼の「誕生以前に」さえ-選ばれていたことを示唆:ガラテヤ1:15
(e) 漁師ペテロ-経験を通して-聖書の著述に生かされる「ある種の人格・世界観」を創造されていた
(f) ルカのボキャブラリー-彼の「教育」とすべての「広い経験からの視野」から結実
2) これらすべてにおいて-神は「神の任務」に向けて-彼を備えて働きにつかせられた
*
7. 「神の思い」を思う
a. それゆえ、新しい指図の「示唆」を与えられただけで
i. 長期間知っていた聖書記者にとって-「神の考え」を考えることは可能だった
b. 個人的な実例-エリクソンの秘書
i. 最初-口述で筆記
ii. 一年あまり後-エリクソンの考えの「概要」を話すと-エリクソンの表現形式を使って-エリクソンの手紙を書けた
iii.
三年目の終わり-私たちは教会に関係のある「多くの課題」にいて話し合っていたので-エリクソンが受け取った手紙に返事を書くように頼めた
c. 口述せずに-ひとり人が話そうとしていることを「正しく知る」ことは可能
i. しかしながら、このことは「関係の親密さ」と「長期における交際」を仮定している
ii. 私たちが述べてきた環境を与えられた「聖書記者」-口述されないで
1) 神がそれを記録してほしいと「望まれた神のメッセージ」を-正確に書き留めることができた
2021年1月10日 礼拝 新約聖書
Ⅱテサロニケ書2:1-17「…のように言われるのを聞いても、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないで」
https://youtu.be/rFIMA-N0rhA
*
先週は、テサロニケの教会が迫害と苦難の只中で「信仰が大いに成長し、愛が増し加わっている」ことから学んだ。クリスチャンの信仰は、苦難から逃避する信仰ではないことをし終えられる。「苦難のキリスト」は、私たちの罪を負われると同時に、私たちの模範ともなられた(Ⅰペテロ2:21,24)。パウロは、「私たちはキリストの栄光をともに受けるために、苦難をもともにしている」(ローマ8:17、コロサイ1:24、Ⅱテモテ3:12)と書き記した。苦難は教会にとって避けるべきものではなく、教会の地上における本質的なあり方である(ヨハネ16:33)。神の民は「多くの苦しみ」(使徒14:22)を受け、苦難によって煉られ、清められ、純化されて(詩篇66:10、ダニエル11:35、ゼカリヤ13:9、マラキ3:2-3)、神の国に入り、再臨の主と会う。イザヤ書の預言の通りに、イエスが十字架の苦難を経て、復活の栄光を受け、天に着座されたように、キリストの教会も同様、地上の苦難を通って、栄光に輝く天のエルサレムの門をくぐる。神の民が地上で受ける「今のときの軽い患難」は、やがて天の「測り知れない重い永遠の栄光」(Ⅱコリント4:17)へと変えられていくのである。
*
今朝の2章は、誤った教えや運動に遭遇したときの教会の、またクリスチャンの対処について教えている。終末においても、「不法の者」v.3,4,6,7,8,9
が現れると述べられている。そして「引き止めている者」v.6,7
が存在するも記されている。たくさんの優れた注解書を目配りすると、前者に関しては歴史上、シリアのエピファネス、ローマの皇帝、さらにはヒトラーやスターリン等多くの解釈例が記されている。後者に関してはて、ローマ帝国の市民法等の法律による悪の抑制効果等が指摘されている。ここでは、特定の解釈に傾斜せずに、この2章の文脈のエッセンスに目をとめ、その本質を今日のコンテキスト(文脈)に適用することにしよう。
この文脈では、「不法の者」は「v.4
すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高くあげ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座る」とある。要するに、神的なものとそれに対して反抗するものとの対比である。わたしは、ここで最近生起している「イスラエルを軸とした民族主義的聖書解釈法」という不健全な教えと、「イエス・キリストを軸とした普遍主義的聖書解釈法」という健全な聖書解釈の対比に適用していきたい。
パウロは、1章で生まれたばかりのテサロニケの教会の兄姉たちが、迫害の只中で成長していることに励ましを受けた。続けて2章で、テサロニケの教会で起こっている「v.2
主の日がすでに来た」かのように教える人のフェイク(偽)・ニュースに翻弄されないように勧めた。ひょっとしたら、このような教えや運動で、別のグループがでたきり、そのグループへの「v.11-12信徒の流出」も起こっていたかもしれない。
しかし、テサロニケの兄姉たちは、v.13「御霊による聖別」つまり母教会への献身と忠節、「真理に対する信仰」つまり「v.1
主イエス・キリストの来臨と…主のみもとに集められる」ことについてのパウロたちの教え、「v.14 私たちの福音」「v.15
私たちから学んだ教え」に、嵐の中で流されないよう錨をおろしていた。
わたしは、最近つとに耳にする「健全な教会」から「不健全な聖書フォーラム」への信徒流出問題に心を痛めている。そして、コロナ・ウイルス感染が広まるかのように、間違った教えや運動が拡散していく只中で、一宮基督教研究所の私たちを含め、多くの先生方、兄姉たちが日夜取り組み、製造してきた“神学的ワクチン”が今こそ用いられるべきだと示されている。昨夏からのラッド著『終末論』、拙著『福音主義イスラエル論Ⅰ・Ⅱ』、仲井隆典著『ディスペンセーション主義終末論の克服』等の注文の急増もそのことを示していたのではないかと振り返る。
教会が弱いから、魅力がないから、信徒が流出するのではない。健全な教えと不健全な教えとの戦いは、初代教会から、テサロニケの教会にもみられる。このような状況は、平穏な時期に「健全な教えと不健全な教え」に対する識別教育をしてこなかった教会にも原因があると思う。このような危機を、それらを識別する力を養う好機として生かすべきではないか。神が信徒の流出に心を痛めている諸教会の教職者・兄姉たちの「v.17
心を慰め、強めて、あらゆる良いわざ(母教会に根差した健全な倫理的生活)とことば(健全な福音理解、終末論、再臨理解)に進ませ」、より良き成長の機会としてくださいますよう祈っていきたい。
少なくとも、わたしがこのようにぶれることなくイエスと使徒たちの教えを紹介することによって、ディスペンセーション主義の影響が強く残る団体においても、教え子たち、若い働き人、兄姉たちは「安黒先生は、このように教えてくださった」と、いわばわたしを“弁慶の仁王立ち”として自らを守る盾として使っていただけると思う。そのような用いられ方であっても、諸教会の福音理解の健全化のお役に立てるなら嬉しい。
*
「神学教育の改善、とりわけ教会の指導者たちのための教育の改善は急を要する。」教会が直面する諸問題は、基本的には常に神学的である。それゆえ、教会は神学的に考えることを身につけることによって、キリスト教的原理をすべての状況に適用できるような指導者たちを必要とする。このことは、教会の教師として「教える能力」(Ⅰテモテ3:2)のみでなく、「教えにかなった信頼すべきことばを、しっかり守り」、その結果「健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることのできる」(テトス1:9)ことを求められている牧師についても言える。(『ローザンヌ誓約
解説と注釈』ジョン・ストット、宇田進訳)p.98
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、⑤言葉の選択に至るまで、64頁、左段30行
https://youtu.be/iIybiQbcHxY
*
6. 霊感は言葉の選択に至るまで
a. ここで「意図しているもの」は-霊感とは-「聖書記者の思想」を神が導かれることを意味
i. その結果-「神が望まれた思想」であった-それらが「正確に表現」された
1) ときどき、それらの思想-大変「特殊なもの」であったり「一般的」であったり
ii. 意図しているもの-霊感は「言葉の選択」にまで広げられて-言語にも働いた
1) しかしながら、単に「言語」に対してだけでなく-言葉以上に「思想」はより正確
b. 黙示録のパトモス-ヨハネの幻の事例
【断想】「聖書フォーラム」への信徒流出問題を分析・評価する
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今、わたしが耳にする深刻な問題は、コロナ問題ではなく、元テレビ伝道者が主催されている「聖書フォーラム」への信徒流出問題である。その情報は、日ごとに増し加わっている。昨夜も、ある兄弟から電話があり、わたしたちの団体の中でもそのような現象が起こっていることを知った。
わたしは、この問題は、教会から「教会もどき」のフォーラムへの信徒の移動の問題ではないと認識している。それだけなら、教会観の問題、教会と超教派運動の”倫理の低下の問題”て済ませられる。ただ、この問題がはるかに深刻なのは、この「信徒の流出」が健全な福音理解から、”不健全な福音理解への流出”問題の側面を抱えているからである。
すでに十年前に洋書で大雑把に目を通していた本『イスラエル学』の部分訳の本を、この危機感から買って読んだ。この本は「聖書フォーラム」運動が、看板のひとつとして掲げている、ユダヤ人神学教師の『イスラエル学』である。邦訳は、「最後のディスペンセーション主義の聖書解釈の部分だけであるので、続いて英文の原書を読んだ。その構成をさらっと目を通しただけでも、この『イスラエル学』なるものは、イエスと使徒たちの「イスラエル理解」とは全く異質な内容であることが明らかである。わたしは、このような基本的なことに対する“神学的盲目”が今回の「信徒流出」の原因であると受けとめている。
ここ十年ほど前から、「イスラエルを軸とした聖書解釈」という新奇な聖書解釈法の流行が起こってきた。ある程度、神学の素養のある者なら、この教えと運動は、神学の世界ではすでに過去の遺物と化している「ディスペンセーション主義の聖書解釈法」に属するものであることが分かる。そして、この教えと運動は、それらの牙城といわれてきたダラス、グレイス、タルボット等の神学校の知的指導者層では、誤った教えとして、「古典的→改訂→漸進主義ディスペンセーション主義」へと移行してきた歴史がある。漸進主義への移行により、その内容は、新旧約の基本的メッセージは、「神のひとつの民、神のひとつの計画」と理解されるようになった。古いディスペンセーション主義の誤りを克服しよう取り組んできた健全化への歴史である。
ただ、「古い皮袋」の教えを学んだ大衆的レベルの伝道者・牧師・神学教師は、いまなお誤りの中で熱心にその教えと運動に取り組んでいる。わたしは、その典型を、今問題化している「聖書フォーラム」運動に見ている。健全なイスラエル論に導くのではなく、誤った「イスラエル学」の、いわば“荒野の放浪”に導き入れる指導者の問題である。
新約のクリスチャンにおいて「イスラエル論」は、旧約聖書の「イスラエル民族盛衰史とその再興」を軸にして理解してはならないのである。それは、素人には“聖書的”とみえるが、イエスと使徒たちの「イスラエル論」とは全く異質な内容を持っている。イエスが福音書で提示しておられる「神の国」は、「ユダヤ人中心の神の国」ではない。すべての民族が包摂される「普遍的な神の国」である。使徒たちが提示している「地のすべてのやからが祝福を受ける」福音は、「ユダヤ人を特別視してない、神殿礼拝の復活や犠牲のささげものの実践は勧められていない」、ユダヤ人もなく、ギリシャ人もない。民族的差別・相違を克服した天的霊的共同体の出現を宣言しているのである。
アブラハムをはじめ、旧約における真のイスラエル信仰をもつ“神の民”は、「玉子の殻の中の黄身」のように旧約の中に準備され、イエス・キリストの人格とみわざを通して、「卵の殻を破り、誕生したひよこ」のように、ペンテコステにおいて出現した。そして、その真の神の民は、全世界の地の果ての民族の救いという神の計画に参与する召命を忠実に遂行してきたのである。そのような意味で、神の民は、古いディスペンセーション主義で教えられるように「二つの神の民、二つの神の計画」ではない。ましてや、メシヤニック・ディスペンセーション主義に位置づけられるある指導者たちは、「二契約説」に立ち、「ユダヤ人はユダヤ人の契約で救われ、クリスチャンはキリストとの契約によって救われる」という新約の福音からの“明白な逸脱”傾向を示している。それらは、健全なユダヤ人伝道団体からも大きな批判と懸念を抱かれているものである。ユダヤ人も、異邦人も、その救いはイエス・キリストの人格とみわざにかかっている。「使
4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない」のである。旧新約を一貫して存在してきた“真の、霊的な本質を宿す神の民”は、「ひとつの神の民、ひとつの計画」の中に置かれているとするのが、イエスと使徒たちの「福音理解」である。
そのような意味で、フルクテムバウム著『イスラエル学』は、神学的に大きな誤りを含んでいると判断せざる得ない。上記のように、わたしは、「聖書フォーラムへの信徒流出問題」は、教会観、教会と超教派運動との倫理的問題にとどまらず、健全な「福音主義イスラエル論」から不健全な「イスラエル学」への流出の問題なのである。このような分析と評価を神学的側面から少しずつ書き綴っていきたい。
本来は、『福音主義イスラエル論 Part Ⅲ
―ハーベスト・ミニストリーズの中川健一氏とフルクテンバウム著「イスラエル学」を福音主義視点から分析・評価する』というかたちで、丁寧な論稿をまとめたいのであるが、それには少し時間が必要である。今、少し多忙なので、緊急対応的に「メール」「チャット」「ズーム」「断想」等のかたちで対応していくことにする。
わたしは、約十年前にこれらの問題が萌芽の時期に、上記の問題に気がついていた。それで所属団体の牧師会や母校で講演・講義を重ねてきた。そして、将来にわたって、“健全化”の流れを確固たるものにするために、ラッド著『終末論』、と日本福音主義神学会学会誌『福音主義神学45号(2014年発行)』に「福音主義イスラエル論」として執筆した。そして、現在はアマゾン書店キンドル版で刊行されている。キンドルの機器のない人でも、パソコンや携帯に「キンドルのアプリ」をダウンロードすれば読むことができる。文書版を所望される方は、アマゾン書店を通して、一宮基督教研究所販売のラッド著『終末論』を注文されると、二つの論文を同梱している。先日キンドル版刊行した仲井隆典先生の『ディスペンセーション主義終末論の克服』も、たくさんの方に購入していただき、読んでもらっていることに感謝している。
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【誤った『イスラエル学』に対する神学的ワクチン紹介】
・仲井隆典著『ディスペンセーション主義終末論の克服』キンドル版、文書版は安黒にメールにて注文可
・岡山英雄著『小羊の王国』『ヨハネの黙示録注解』「患難期と教会」論文
・リチャード・ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』
・ジョージ・ラッド著、安黒務訳『終末論』
・安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』『福音主義イスラエル論Ⅱ』
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最後に、わたしは、元テレビ伝道者やユダヤ人神学教師をむやみに批判したいわけではない。わたしが確信し、多くの優れた福音主義神学者たちが確信している「健全な福音主義イスラエル論」から、そんなにも簡単に「不健全で誤ったイスラエル学」に移っていく、神学的素養の希薄な、しかし敬愛する兄姉のことを心配しているのである。この誤った「聖書フォーラム」運動で日本キリスト教会が受ける大きな傷を懸念しているのである。コロナ・ウイルス対応のように、早期に効果的な「神学的ワクチン」の準備と、教派を超えてそのワクチンを接種していく協力体制の構築が求められているように思う。健全な教えの教会から不健全な「聖書フォーラム」への信徒の流出が止み、不健全な「聖書フォーラム」から健全な母教会への信徒の回帰が起こることを願いつつ、さらなる「断想」を書き綴っていきたい。
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【新改訳2017】
ガラ1:6
私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。1:7
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。
ロマ9:1 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、9:2
私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
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キンドル版は、キンドルの機器がなくても、下記のサイトから、パソコン用キンドル・アプリ、携帯用キンドル・アプリをダウンロードして読むことができます。
https://www.amazon.co.jp/kindle-dbs/fd/kcp/?_encoding=UTF8&ref_=sv_nav_ebook_8
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、④ケネス・パイクの倍率の次元、63頁、右段15行
https://youtu.be/uGZq9-SC-G4
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4. ケネス・パイクの倍率の次元
a. 神-聖書記者が「その考え」を表現するために-「正確に」特別な言葉を使うように-導く
i. 「考え自身」-「一般的」であったり、かなり「特別なもの」であったり
1) 言語学者ケネス・バイク「倍率の次元」
(a) 聖書-いつも「最大」の倍率で-きわめて「詳細に」示す-ことを期待できない
(b) 「神が意図される」-詳しさ、特性の程度、倍率のレベルにおいて-神が「意図される概念」を適切に表現
2) 聖書-私たちが「期待したり」、「望んだり」するほどには-詳しくない
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5. 特性-詳細・拡大の様々なレベル
a. 私たちは-「何を心に持っているか」-説明するのに役立つ
i. 図-「特性」または「詳細」か「拡大」の様々なレベルを描写
1) 特性の次元-図の上で「垂直の動き」を伴う
2) 考慮のうちにある概念「赤色」と仮定
(a) この思想-「多い」「少ない」という-特性の程度もっていない
(b) それはもはや-特別なもの(例えば、緋色)とか-特別な(色)のどちらでもない
(c) それは「一般性」-「特性」軸に関して-垂直に (d)
特性の与えられたレベルに関して-水平(例えば、赤対黄色、緑)の両方-図の上で「特別な位置づけ」
3) もうひとつの例:絵における「詳細の程度」
(a) パイクの用語における拡大の高い・低いの程度-焦点の鋭さ・曖昧さ
(b) 正確でない焦点の場合-詳細はぼやけたり、消え去ったりする
4) しかしながら、「ふたつの次元」-詳細と焦点-混同されるべきではない
ii. もし「その考え」が十分に正確なら-与えられた言語-もしくは、与えられた著者の語彙に
1) ただひとつの言葉が-その意味を適切にコミュニケートしたり、表現したり
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、③聖書記者の思想を導く、63頁、右段4行
https://youtu.be/IJFBXY7qnHM
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3. 聖書著者の思想を導く
a. 御霊がなされるもの-「聖書記者の“思想”」を導くこと
i. しかし御霊によって影響された導き-まったく「的確」
ii. 聖書記者の語彙の内に-神が伝達しておられる思想を-最も巧みにコミュニケートする「ひとつの言葉」が選択される
iii. 「思想」を創造し、聖書記者の「理解」を刺激することにより-御霊は「特別な言葉を使う」ように影響力を行使する
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、②教訓的な素材を第一にする、63頁、左段32行
https://youtu.be/KEJShF3UN_s
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2. 教訓的な素材を第一にする
a. もし私たちが-「両方の方法」を保持すべきなら-それらを「統合」する道を見つける必要
i. 私たちは-第一義的な考慮を「教えの資料」におく
ii. 霊感は-「言葉の選択」にさえ広げられている-ことを意味している「霊感は“言語”に働いた」
1) しかし、私たちは「言葉の選択」が意味しているものを-その「現象を吟味する」ことにより-定義するつもりである
2021年1月3日
新年礼拝 新約聖書 Ⅱテサロニケ書「信仰が大いに成長し、愛が増し加わっている」
https://youtu.be/VpsDTgzhhR8
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今朝は、新年礼拝である。昨年からの継続として、テサロニケ人への手紙第二に傾聴していこう。昨年は、内外の世代交代の流れに沿うかたちで、新約時代の世代交代期の牧会書簡に傾聴し、その後教えと運動に歪みのある傾向を憂え「健全な終末論、健全な再臨理解」と題し、Ⅰテサロニケ書に傾聴してきた。これはその継続である。約十年前に、わたしの周辺に大きな動きがあり、ちょうど武漢で「コロナ・ウイルス感染」が広まった時に、ある医師が警鐘を鳴らし始めたように、わたしも「ある教えと運動」の全国的な展開と所属団体と母校への悪影響を憂え、電子メールで「警戒情報」を流し続けていた。そして、「なぜ、わたしが”ディスペンセーション主義の教え”と“キリスト教シオニズム”の運動に不健全な要素があると思うのか」―牧師会での講演と質疑応答をもって説明させていただいた。
そして、いつかわたしも団体の教職者また母校の教師の奉仕を終えるときがくるだろうと思った。そして、わたしが奉仕を終えた後、この団体と母校の“針路”は一体どのようになるのだろうと心配した。それで、不健全な教えや運動に流されてしまわないために、“これらの船に錨を下しておくべきだ”と示された。それで、錨として、またワクチンとして、G.E.ラッド著『終末論』と安黒務著『福音主義イスラエル論Ⅰ』を翻訳・執筆した。
あの危機感から十年を経て、昨年のコロナ・ウイルス騒動の中、ユーチューブ・サイト等を通して「不健全な終末論、不健全な再臨理解」の汚染は以前にも増して広がっているとの情報を耳にした。その時、「神学的なウイルス感染の動向の端緒において気が付いていた私の対応はどうであったのだろう。
団体や母校でディスペンセーション主義の教えやキリスト教シオニズムの運動に携わっている道路医者への配慮で矛先は鈍くなってはいなかっただろうか。感染阻止、ワクチン開発、治療の処方箋提供をあの時期にもっと徹底的に取り組んでいるべきではなかったのか」という反省である。
最近思うことは、ファンダメンタルで、ティスペンセーショナルなバイブル・スクールで育てられた戦後の教職者ですら、これらの誤りから、なかなか“治療・治癒”されないのだから、信徒の兄姉にそれを求めることは大変なことであると感じている。「一体どのようにすれば、この神学的なウイルス感染の拡大を抑え、感染者に対して効果的な治療を進めることができるのだろうか」-そのような課題を心に突き付けられている。
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Ⅰテサロニケ書は、ユダヤ教徒の迫害の最中の残してきた「生まれたばかりの教会の行く末を案じていたパウロの心」が溢れている。Ⅱテサロニケ書は、そのような「迫害の只中でも、主からの励まし、慰め、支えをもって耐え忍び、健全な福音理解において“目に見えて成長”し続けているテサロニケの教会への感謝」に溢れている。
わたしは、新約聖書書簡には、「旧約聖書観」に対する取り組みが各所に示唆されているように感じている。ガラテヤ書では「ユダヤ教キリスト派」的な捉え方をするユダヤ人クリスチャンの誤りとパウロは格闘している。このテサロニケ書では「v.5
神の国」問題が垣間見える。ユダヤ教徒にとって、「神の国」とはユダヤ人中心の民族主義的神の国の再建・再興であった。しかし、新約のイエスと使徒たちにおいては、「地のすべてのやから」が対象であり、アブラハムに対する祝福の約束は、全人類の普遍的な神の国の完成が目的とされている。
しかし、ディスペンセーション主義の牙城といわれたダラス神学校で学ばれた経歴をもたれるユダヤ人神学教師の『イスラエル学』においても見られるように、今日流行している新奇な教えと運動においては、「ユダヤ人中心の患難期とユダヤ人中心の千年王国」がうたわれている。わたしは、ここに聖書解釈法における「旧約の影」の誤った支配構造をみる。それが「新約の光」を遮っているのをみる。新約の光の中では、患難期の只中で守られ、殉教をも恐れずに証しするのは教会である。千年王国・新天新地で中心となるのは、多民族・多文化の総体であり、全人類が対象とされている(黙示録21:24-25,
22:2)。
「v.6
苦しめる者」と「苦しめられている者」との最終的な運命の対比がなされている。それとともに、わたしはⅠコリントを思い起こす。イエスを信じる教職者の運命の差異である。パウロやテモテやテサロニケの人々のように「健全な教え」で養われ、成長し、おいしい葡萄の実を結実させた者には、報いが約束されている。栄光が約束されている。しかし、「不健全な教え」で諸教会を翻弄させた教えや運動を導く者たちは、救われるのは確かなのであるが彼らは“火事場を焼け出される”ようにして御国に入るというのである。彼らのミニストリーは、一見華やかに見えても、神の目からは、新約のイエスと使徒たちの目からは“木、草、わら”なのである。それらは確実に焼き尽くされる運命にある(Ⅰコリント3:10-15)。
パウロは祈る。「v.11
召しにふさわしい者」誤った民族主義的熱狂に翻弄されることなく、健全な福音理解に養われ、全人類・全民族平等の平和共存・民族自決・共存共栄をはかる者とされるように。「善を慕い」旧約の誤った理解と解釈によって残忍な植民地主義・アバルトヘイト的政策を是認しないように。ユダヤ人の間だけでなく、パレススチナ人、アラブ人、ペルシャ人の間でも「v.主イエスの御名があがめられ」るように。そして、わたしたちが、いわば“毬栗(いがぐり)”のような旧約聖書から、「イエス・キリストの人格とみわざ」という皮むき器を通して、剥きだされるおいしい栗の実を食べ、健全な福音理解と健全な全人類的キリスト教倫理の中に「目に見えて成長し、愛が増し加えられ」といきますように。パウロは、このように今年の針路を指し示している。
エリクソン著、安黒務訳、信徒のための『キリスト教教理入門』第五章 啓示の保存ー霊感、第六節
霊感のモデル、①二つの基本的方法、63頁、左段14行
https://youtu.be/OERkA2wBBlE
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1. 二つの基本的方法
a. 霊感についての「理論」を組織立てていくとき-使用されている「二つの基本的方法」を認識する必要
i. 第一の方法-「聖書記者の見方」と「聖書記者の聖書活用方法」-についての啓示に第一義的強調「教訓的アプローチ」
1) ベンジャミン・B・ウォーフィールドと「プリンストン」神学校の著述
ii.
第二の方法-聖書記者が記録している「多様な方法」を分析-「並行記事」を比較したり-「聖書がどのようなものであるか」を見る
1) 第一義的に「聖書の事象」を基盤して-霊感の理論を発展させた-デューイ・ビーグルの方法
2020年度のICI Diary は、「 2020」にリンクしています。