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ICI Daily & Diary Lectures

2010年08月 ICI日誌

2015/03/28


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 [Monthly] 一宮基督教研究所インフォメーション・メール 2010/08/01-08/31
     One More Paragraph!   −組織神学的瞑想のひととき−
───────────────── ICI Daily & Diary Lectures Headline

主の御名を崇めます

 8月は猛暑の夏でした。9月も残暑が続いています。健康に留意してください。

 礼拝では、ガラテヤ書研究に取り組みました。聖書研究ではなくメッセージで
すので、詳細な掘り下げはできませんでしたが、近年のすぐれた注解書を参照
しつつ、ガラテヤ書の学びを深められたことは感謝なことでした。ダンについて
は、賛否両論、多くの議論がありますが、パウロの手紙の背景・文脈の解釈
につきましては刺激に満ちた要素が多くありました。これらの要素を注意深く
精査しつつ、ガラテヤ書とローマ書の学びを続けたいと思います。

 また、晩秋11/19にKBIで開催される実践神学シンポジウムに向けて、
担当予定の「レストレーション・ムーブメントの包括的分析と評価」の準備を
しています。Allan Anderson,"Introdution to Pentecostalism"は20世紀の
ペンテコステ運動の多様な歴史と幅とその神学的内容の分析と評価がなさ
れている良書です。そのような包括的な視点にたって「レストレーション・ムー
ブメントの包括的分析と評価」を試みたいと考えているところです。

 8月末には、学会誌『福音主義神学』の諸論文が集まり、今後四十周年
記念号の編集がなされます。わたしも宇田進先生の“手書き”論文を受け取り、
入力させていただきました。これらの論文には、福音主義神学会の創設期
からの歴史と展開が記されており貴重な記念号となりそうです。ご期待ください。

                                 あぐろ

PS
一昨年、取り組みました「霊の戦いに関するナイロビ声明」がライフセンター
にて委託販売中です。福音派内で議論のある領域に関するバランスのとれ
たガイドラインを提示しているローザンヌ・シリーズの貴重な一冊です。
この機会にぜひお買い求めください。税込500円という手頃な価格で
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霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」
    小冊子・解説ビデオ・神学的背景ビデオ講義録のご案内
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  • 「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロ
    ビ声明」は、ライフ・センターにて委託販売されています。
     

  • 小冊子とともに、「ナイロビ声明」解説DVD(80分)や
    その神学的背景としての「悪の問題」「天使論」ビデオ
    講義録も一緒に学ばれるとさらにこのテーマを立体
    的に学ぶことができます。

    • できるだけ多くの方に提供させていただきたい
      ので、従来の価格体系(60分=1000円)をはずし、
      『ナイロビ声明』発売記念特価
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      いただいています。

    • ご案内:小冊子はライフセタンーにて購入していただけます。

      • 「霊の戦い-その聖書的・包括的理解に関するナイロビ声明」小冊子 =定価 500 円(税込)

      • 「ナイロビ声明」解説講演・質疑応答DVD(80分) =通常価格1300円を特価 500  円(税込)

      • 「悪の問題」「天使論」(6時間)+「ナイロビ声明」解説講演・質疑応答(80分)計7時間20分 BD-R(ブルーレイ・ディスク)=通常価格7300円を 特価 1000  円(税込)
         

    • ご紹介

 

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     2010.08.29 ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
          「全財産の持ち主なのに」        
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  • 新約聖書 ガラテヤ人への手紙4章前半

  1. 後見人・管理者の下にある子供

  2. 律法の下にある者を贖い出し、子としての身分を受ける

  3. 「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊

    • 参考文献

      • 村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」、『新聖書注解』いのちのことば社、pp.471-474

      • ドナルド・ガスリ著『ガラテヤの信徒への手紙』日本基督教団出版局、pp.185-196

      • 山内眞著『ガラテヤ人への手紙』日本基督教団出版局、pp.229-250

      • R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.157-166

      • F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.191-207

      • Ronald Y. K. Fung,"The Epistle to the Galatians", The International Commentaryon the New Testament, pp.179-194

      • J.D.G.Dunn,"The Epistle to the Galatians"Black's New Testament Commentaries, pp.209-230

      • J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.122-124

 

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     2010.08.22 ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
        「では律法とは何でしょうか」        
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  • 新約聖書 ガラテヤ人への手紙3章後半

    1. 違反を示すために付け加えられた:律法の断罪的用法

    2. キリストへ導くための私たちの養育係:律法の教育的用法

    3. 律法は神の約束に反するのでしょうか。
      絶対にそんなことはありません。:律法の規範的用法

      • 参考文献

        • 村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」pp.466-471、『新聖書注解』いのちのことば社

        • 山内眞著『ガラテヤ人への手紙』pp.194-218

        • R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.144-154

        • F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.168-182

        • J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.115-121

        • J.D.G.Dunn,"The Epistle to the Galatians"Black's New Testament Commentaries, pp.180-202

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     2010.08.15 ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
        「義人は信仰によって生きる」        
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  • 新約聖書 ガラテヤ人への手紙3章前半

    1. 律法を行ったからか、信仰をもって聞いたからか?

    2. 律法ののろいと祝福の約束−キリストにより、信仰により、約束の御霊を受ける

    3. 信仰、御霊、バプテスマ

      • 参考文献

        • 村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」pp.463-471、『新聖書注解』いのちのことば社

        • 山内眞著『ガラテヤ人への手紙』pp.165-228

        • R. Alan Cole, "The Epstle of Paul to the Galatians"Tyndale New Testament Commentaries,Eerdmans, pp.126-157

        • F.F.Bruce, "The Epistle to the Galatians" The New International Greek Testament Commentary, Eerdmans, pp.147-191

        • J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.84-121

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     2010.08.08 ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
    「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした」        
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  • 新約聖書 ガラテヤ人への手紙2章

    1. 今、走っていること、またすでに走っていることが無駄にならないため

    2. ケパに非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました

    3. もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です

      • 参考文献

        • 村瀬俊夫論稿「ガラテヤ人への手紙」pp.455-462、『新聖書注解』いのちのことば社

        • 山内眞著『ガラテヤ人への手紙』pp.97-165

        • J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.45-83

        • J.D.G.ダン著『新約学の新しい視点』すぐ書房、pp.47-88

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     2010.08.06 Tコリント書12章13節の解釈
 − E.シュヴァイツァー、J.D.G.ダン、A.ビットリンガーから学びつつ −

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、
一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、
そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
」        
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  • 先週、ある先生からこの箇所の注解について問い合わせがあった。すでにR.H.カルペッパーがその名著『カリスマ運動を考える』(ヨルダン社、pp.105-158)において、多くの重要参考文献からの引用に基づき、客観的な視点から適切な解説をしている。ここでは、カルペッパーが参考にしている資料源にあたることにしたい。わたしの手元にあるカトリックのカリスマ運動指導者のK.マクドネルの編集した“Presence, Power, Praise”(The Liturgical Press)の三巻本には、プロテスタントとカトリックのさまざまの教派のカリスマ的経験に関する解釈や声明が紹介されている。カルペッパーの書物のpp.106-121にも「聖霊のバプテスマ」についての多様なカリスマ的解釈を代表的人物名をあげつつ紹介されている。そこには、R.A.トーレー、マイケル・ハーパー、デニス・ベネット、トマス・A・スメイル、スーナン枢機卿、J・ロッドマン・ウィリアムズ、ラリー・クリステンソン、ディビッド・デュ・プレシ、アーノルド・ビットリンガー等とその解説が記されている。そして、その後に、「評価」がなされおり、その構成は「@新約聖書における聖霊のバプテスマの意味、Aキリスト者の体験の内容、Bペンテコステの性質、C聖霊のバプテスマの受け方、D水のバプテスマと聖霊のバプテスマ、E霊の力」である。

  • わたしの所属している団体は、スウェーデン・バプテスト系諸教会を背景として形成されたスウェーデン・オレブロ・ミッション(現在、三派合同でインターアクト)の宣教師により形成された。オレブロ・ミッション諸教会は、ペンテコステ的経験にひらかれたスタンスをとっていたので、日本で開拓・教会形成されたJEC(日本福音教会)諸教会もまた、そのスタンスを継承している。現実には、二十世紀中期のプロテスタント諸教派で広まっていったカリスマ運動の影響が強いと思われる。この時期によく読まれた書物としては、米国聖公会のカリスマ運動指導者のデニス・ベネット著『朝の九時』『聖霊とあなた』がある。聖化の関係でよく読まれたのが、ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』『キリスト者の行程』であった。聖化理解において、聖化のバプテスト理解としての漸進主義理解と聖化のホーリネス的理解の危機主義理解の両者を包摂する折衷的理解として、JECの聖化理解の基準書ともなった。鍵となる概念は“In Christ”であり、イエス・キリストを信じるだけで、すべての恵みを受け取っており、そのキリストにある客観的立場に立脚して、漸進的かつ危機的の両面において聖化の主観的恵みを、“already, not yet-tension”の中でキリストのうちから引き出していくというものである。原理的にはパウロがローマ六章で詳述しているように、イエス・キリストを信じるということは、キリストの中にあることであり、同時にキリストの死・葬り・復活の経験に同一化“Idetification”していることなのである。イエス・キリストを信じたときに、キリストの中にあることにより、時間と空間を超えてわたしは「キリストとともに、死に葬られ、復活した」という立場に置かれるのである。そしてパウロがローマ七章・八章で詳述しているように、この立場が私たちのクリスチャン生活の中で現実化するのは、キリストの御霊によるのである。

  • カリスマ的経験に関する文脈の中で、『キリスト者の標準』と『キリスト者の行程』に言及したのには訳がある。実は、JECにおける「聖霊のバプテスマ理解」の基本が、「聖化理解」と同じ線上にあるからである。キリスト者の標準において、示されていることは「聖化の課題」に関し、キリストにある客観的立場に安息することであり、御霊の啓示の働きにより、みことばに示されている霊的立場を「@知り、A認め、Bその認識の上に自分をささげ、C御霊の導きに従って歩み、D十字架を負う」ことであると進歩の行程が詳述されている。

  • JECの福音理解の礎を据えられた故我喜屋光雄師は、上記の福音理解の線上において、「聖霊のバプテスマ」を理解しておられ、わたし自身は“その視点から”の聖霊のバプテスマ理解の説明を何度も耳にし、目にした。このポンイトは、わたしにとって、JEC(日本福音教会)またKBI(一宮基督教研究所)の福音理解の扇の要であると受けとめている。JECにおいても、またKBIにおいても、福音理解の多様化が進んできていると感じている。これは、JECまたKBIのバプテスト的体質が背景にある。そのような中で、福音理解を継承・深化・発展させる場としてのJECという群れ、またKBIという神学校という委ねられている私たち教職者には大きな責任があると思う。Tコリント書12章のキリストのからだ理解において見られるように、多様性は大きな祝福である。わたしは、群れや神学校における多様性は大きな祝福であると受けとめている。ただ、烏合の衆に陥るのはよくない。では、どうすればよいのか。J.D.G.ダン著『新約聖書の統一性と多様性』において、ダンは「本質において一致、本質的でない事柄おいて自由、すべての事柄において愛」と記している。新約聖書において、ダンはすでに多くの多様性を見出している。教会像においても「@使徒行伝にみられる熱狂的教会像、Aパウロ書簡前半にみられる御霊の賜物豊かな教会像、Bパウロ書簡後半にみられる健全な教理を重視する教会像、Cヨハネ文書にみられる熱の冷めた、儀式化の傾向をもつ教会像」を提示している。そして、新約聖書教会の多様性の中における統一性、統一性の中における多様性に学ぶことをすすめている。

  • わたしは、JECとKBIにおける本質のひとつは、キリストの身代わり“Substitution”とキリストとの同一化“Idetification”にあるのではないかと考えている。両者ともに、イエス・キリストを信じるのみで、キリストの中にあること“In Christ”によってすでに受け取っているものである。「信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ」である。それ以外のものを付け加えることをパウロの福音は許さない。茶道や花道、剣道や柔道にいろんな流派がみられるように、聖霊経験に関しては、この一元的な恵みをどのように主観的に受け取っていくかについて、多様な解説は許容される。ただ、聖書記述の客観的意味とその意味の主観的適用とは厳密かつ繊細に区別されていくことが、JECまたKBIの福音理解においてもきわめて重要であると思っている。

  • キリストとの同一化“Idetification”についてのパウロの解説は、わたしたちに聖化の立場と経験だけでなく、聖霊のバプテスマの立場と経験についても、健全な理解を提示してくれている。故我喜屋師は、『キリスト者の標準』と『キリスト者の行程』にヒントを得て、ペンテコステ経験またカリスマ的経験を、キリストにある客観的立場と聖霊による主観的経験の両面から説明してくださった。聖霊のバプテスマの立場と経験はどのように理解できるのか。その鍵となる聖句のひとつはエペソ「エペソ2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」キリストにある霊的立場として、イエス・キリストを信じたときに私たちはキリストの中にあることによって(In Christ)、キリストとともに死に、葬られ、よみがらされ、天のところに座らせてくださっている、ということです。歴史的事実として、イエス・キリストは、使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた、とあります。そして、使徒2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

  • そのときに、使徒2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言った。
    2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいた。
    2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
    2:15 今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。
    2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
    2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
    2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
    2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。
    2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
    2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
    2:22 イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。
    2:23 あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。
    2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。
    2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
    2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
    2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
    2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
    2:29 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
    2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
    2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。
    2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
    2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

  • ペテロのペンテコステの出来事の解説である。あと、サマリヤ、パウロの回心、コルネリオ、エペソにおいて、回心と聖霊の注ぎ、また満たしの出来事への言及がある。この一連の聖霊経験の理解と解説において、種々の立場が生まれてきている。二十世紀初期に形成された古典的ペンテコステ派は、使徒行伝を基盤として「異言を伴う聖霊のバプテスマ」の立場に立つ、中期に伝統的諸教派に広まったカリスマ運動は前期パウロ書簡を基盤とし、聖霊の種々の賜物が伴う聖霊の満たしを伝統的福音理解との調和の中で多様なかたちで語ろうとする。後期にフラー神学校のC.P.ワグナーやC.クラフト、ヴィヤード運動のJ.ウィンバーに指導された展開した第三の波は福音書にみられる知識の賜物と癒しを強調した。そしてその後の霊の戦いの教えにおいては、福音派の間にいろんな議論が巻き起こってきた。

  • わたしの個人的な重荷のひとつして、スウェーデン・バプテスト系の穏健なカリスマ運動の流れにオープンな群れらに属し、上記のテーマに常に関わってきた神学教師として、全面肯定とか全面否定という極端なスタンスにたつのではなく、是々非々というか、上記の歴史的展開の中にある良きものを継承・深化・発展させ、課題として残っているもののひとつひとつを神学的視点から整理し克服への道筋を示していくということがある。

  • 今回、Tコリント12章13節を取り扱うのも、この重荷から発している。わたしがペンテコステ的な理解の中にある課題を取り扱おうとすると、「安黒先生は、保守的な立場になられたのか?」という声が聞こえてくる。そうではないのである。わたしは、ペンテコステ・カリスマ・第三の波の人々を包摂するスタンスにたちつつ、その中にあり、取り扱われずに残されている宿題を片付けようとしているだけなのである。「火中の栗を拾わず」という生き方をする人もあるが、わたしの召しと賜物は「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」なのである。現時点では、反発されても、長い先において必ずこのような取り組みが評価される日がやってくることを信じて、地道に取り組むだけである。

  • Tコリント12章13節の解説には、多くの書籍が出されており、多様な解釈がなされている。それぞれの書籍には一定の価値がある。ただこの聖書箇所の解釈で第一義的に大切なことは、客観的な聖書釈義を扱っている書籍と主観的な適用を扱っている書籍を識別することであると思う。わたしが初期に読んでいた多くの書籍は、霊想書関係の主観的適用に触れた説教調のものであった。それらの書籍は聖書の御言葉に言及しつつ、聴衆の必要に触れようとして、ときには読み込みやこじつけに近い解釈と思われるケースもあるから注意が必要である。その著者が厳密な聖書解釈を重んじる教職者なのか、説教者としては有名であるが聖書解釈には課題をもつタイプなのか、識別が大切である。

  • Tコリント12:13の聖書解釈をみていくときに、カルペッパーが書いているように、運動推進のため書籍や運動非難を目的とする両極の書籍にも注意が必要である。それらは、その目的のために聖書をその目的にかなうように解釈する傾向があるからである。そうではなく、客観的かつ中立の立場で、一世紀の状況の中で、パウロが言わんとしたことは何であったのかを徹底して探求する姿勢こそが必要なのである。一世紀のコリント教会の文脈の中でパウロが語ろうとしたことは何であったのか、それが重要である。それを明確にして後、はじめて二十一世紀のわたしたちの文脈への適用が可能となるのである。

  • 新約聖書における「聖霊のバプテスマ」の意味について、「聖霊のバプテスマ」という言葉は、新約聖書の中には一回も出てこないのだが、「バプテスマを授ける(または受ける)」という動詞が聖霊という言葉と関連して用いられているところは七つある。その内容は預言的に言われている、マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33である。そのどれもが、ペンテコステの日のことを預言しており、実際にその通りになった。この五つの聖句は、信仰者が回心後に熱心に求めた結果としての体験をのべているのではなく、聖霊の注ぎという歴史上の出来事(ペンテコステ)をのべているところである。

  • さて、この五つの聖句とならんで第六番目の重要な聖句は使徒行伝11章16節である。大きな文脈の中にあるこの聖句は、歴史的な関わりの中で読みとるべきところであって、ペテロがコルネリオの家で異邦人に伝道した時、異邦人に起こったことをエルサレムのクリスチャンに報告している中の一節である。ここでも、ペンテコステの日と同じことがまた起こっている。しかしこのときは回心と同時に起こり、しかも回心体験の不可欠な一部となっている。

  • 第七の聖句は、Tコリント12:13で、教訓的または教理的な内容が書かれている。それは、クリスチャンの体験について神学的解釈を与えている箇所であり、新約聖書が聖霊のバプテスマの教理をどう語っているのかを理解するために非常に重要な箇所である。この聖句は、聖霊のバプテスマの教理を理解するための鍵となる。なぜなら、教理的な性質をもつ聖句というのは、当時の問題を神学的に解釈するところであり、それを基盤にして預言的、歴史的性質をもつ聖句を理解しながら教理を形成していくというのが、聖書解釈の健全な原則である。

  • この箇所の、ギリシャ語の前置詞“エン”は、英語では“in”とか“with”と訳すのが普通である。しかし例外的に“by”と訳すこともできる。初めにあげた六つの聖句は、改正標準訳(RSV)では“with”と訳しているが、このTコリント12:13では“by”を使っているということで、バプテスマの授与者がキリストではなく聖霊であるとの解釈がなされることがある。しかしこの解釈は正しいのであろうか。この箇所の正しい解釈を求めて、わたしたちは非常に高い評価を得ているキッテルの新約聖書神学事典(TDNT)をみることにしよう。

  • キッテルの新約聖書神学事典(TDNT, vol.6)の聖霊(プニューマ)の項目、pp.332-455は、この分野の第一人者のひとり、E.シュヴァイツァーによって書かれている。「パウロは、すべてのメンバーを含んでいる、挙げられた主の霊的なからだのアイデアを分かちあっている。このことは、彼がすでにキリストのからだについて語っている自然な形でみられるかもしれない。彼はそのことを紹介せずにであるが、明らかにこのことを前提としている。それは、キリストにあって(In Christ)という」聖句においてもみられる。そのアイデアは、Tコリント12:13においても紹介されている。12節におけるキリストとからだとの明白な同一視は、これが単にメンバーがともに集められることをもってゴールに到達したことを示すのみならず、それだけではなく信仰者がバプタイズされるところの存在するからだを意味している。そのアイデアはそのように首尾一貫している。そのからだは、信仰者は統合され、彼らが皆飲むようにさせられる(13b)霊的な要素である。13aの「エン プニューマチ」は、おそらくはTコリント「6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです」とあるように手段として受け取られるべきであるだろう。しかしながら、一致を結実する力は、繰り返し実質的にひとつの要素として理解されているのである。(Editors: Gerhard Kittel,"Theological Dictionary of the New Testament")

  • R.H.カルペッパー著『カリスマ運動を考える』のp.125には、「Tコリント12:13についての有用な学問的解釈についてはダンの『聖霊のバプテスマ』を参照されたい。ダンはペンテコステ派の中の新ペンコテステ的解釈とサクラメントとしての解釈との中間の立場をとっている」と記されている。「Tコリント12:13…御霊のバプテスマについて明白に語られているパウロの一節であるTコリント12:13は、ペンテコステ派にとって重要な箇所である。この箇所がペンテコステ派の神学と一致するようにする種々の試みがなされてきた。パウロは、ここで水のバプテスマとか、御霊のバプテスマを話しているのではない。そうではなく、第三のバプテスマ、つまり回心の別の呼び方である御霊によるバプテスマについて語っているのである。この解釈は主としてRSVの翻訳を基盤としている。しかし「エン」が道具的な効果をもつという主張は多くの学者によって支持されている。しかしながら、その解釈はほぼ確実に退けられている。新約聖書において、「バプティゼイン」に伴う「エン」」は決してバプテスマを施す人物を示してはいない。その反対に、それはいつも受洗者が浸される要素を示している。…御霊のバプテスマについて語られている他の六つの箇所(マタイ3:11、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33、使徒1:5、11:16)のそれぞれにおいて、ヨハネのバプテスマにおいて使用される水に対照されて、御霊はメシヤのバプテスマにおいて使用され要素なのである。(James D.G.Dunn“Baptism in the Holy Spirit”SCM Press, pp.127-128)

  • R.H.カルペッパー著『カリスマ運動を考える』のp.149において、彼は「ルター派のカリスマ運動指導者であるアーノルド・ビットリンガーは正しい見方をしています」と高く評価している。このビットリンガーがTコリント12-14章を扱った彼の著書においてTコリント12:13の大変すぐれた注解をしているのでここに紹介したい。「ひとつの御霊にあずかることを通して、わたしはひとつのからだの一員となる。この御霊にあずかる以前は、彼らはあらゆる種類の民族的、文化的、社会的、宗教的なグループに結び付けられていた。ひとつの御霊にあずかることによって、キリストのからだにおいて御霊を所有している人々はそれらのすべての人間的結びつきや縛り付けているものを超越する。この新しい関係は以前のすべての結びつきよりも強いものである。あらゆる他の結びつきは基盤となるものは、からだ(たとえば、人種、皮膚の色、等)とか、魂(たとえば、文化、宗教、等)に関係があった。しかしキリストのからだのメンバーはひとつの御霊にあずかっている。「バプテスマを受ける」とか「飲む」という表現を使用するとき、パウロは御霊を受ける行為が多種多様な側面から眺められうることを明らかにしている。「バプテスマを受ける」という表現は、「何かに浸されること、また沈められる」ことを意味している。バプテスマのときに水がそうであるように、御霊が信仰者を取り囲み、おおうのである。しかしながら、「飲む」という表現は聖餐式のときにパンとブドウ酒をいただくときのように、彼自身の内に御霊を受け入れるとの印象を与える。信仰者は「御霊の内に」にあり、そした御霊は「信仰者の内に」ある(これは、パウロが「私たちはキリストの内にあり」と同時に「キリストはわたしたちの内におられる」との並行表現を使用していることに比較される)。両方のケースにおいて、ギリシャ語の動詞形は、御霊を受けることは過去における特別な時に生起した単一の経験であることを示唆している。パウロが「バプテスマを受ける」ことと「飲む」という表現を使用していることは、洗礼と聖餐にある光を投げかけている。個々のメンバーが内的にキリストのからだに結び付けられているように、洗礼と聖餐を通してキリストのからだは外的に表現されているのである。しかしながら、私たちは内的と外的との間キリストのからだを分けてはならない。私たちは見える教会と見えない教会を区別することはできない。私たちは教会の中いる悪しき人々を「見える」教会に退けることはできない。私たちは外的なしるしと内的な実質の間に矛盾がなきよう、もっと関心を寄せるべきである。イエスはそのしるしを私たちが破壊することをゆるされなかった。そのシンボルを傷つける人はだれでも、同時にその物事そのものの一部分をも破壊するみとにもなる。Tコリント11:29fにおいて、パウロはみからだをわきまえないで聖餐にあずかる人々はキリストのからだに病をもたらすであろうと明確に語っている。バプテスマと聖餐の目的はひとつ、つまり「御霊がなしておられる力強い流れに引き寄せられる」ことである。」(Arnold Bittlinger“Gifts and Grace-a commentary on 1 Corinthians 12-14-”Hodder and Stoughton, pp.57-58)

  • 上記に示されているような福音主義の客観的な聖書解釈に立脚しつつ、その基盤の上に多様性を有する霊的経験への適用を位置付けるべきだと思う。このあたりの包摂的な整理を、英国のカリスマ運動指導者ディビッド・ワトソンが下記の通りしているのは参考になる。

    1. すべてのクリスチャンは『全クリスチャンが聖霊を所有している』ということに賛同する。

    2. すべてのクリスチャンは、『必ずしも、すべてのクリスチャンが聖霊に満たされているわけではない。』ということに賛同する。

    3. 全てのクリスチャンが『聖霊のバプテスマ』という表現に賛同しているわけではない。しかし、正しい観点をもっいるものであるなら、互いにもう一方の立場を認め合うことができる。

    4. 『バプテスマ』という用語は、疑いなく、クリスチャン生活の端緒に結びつけられている。少なくともその意味において、全てのクリスチャンはすでに聖霊のバプテスマを受けている。それは持てる者と持たない者の問題ではない。私たちがキリストにあるや否や、私たちはすべてものを所有している。少なくとも潜在力において。

    5. 『バプテスマ』とか、『バプテスマを受ける』という用語は、豊かな表現である。『バプテスマを受ける』という言葉は『端緒となる』という意味と、『満たされる』という意味の両方で話されている。前者は客観的立場についての説明であり、後者は主観的経験についての説明である。混乱は、一方が他方の損失において強調されるときに生じる。たとえば、クリスチャン生活の端緒から全く別個の経験として聖霊の満たしが考えられる場合に混乱が起こる。ただ経験的には必ずしも一つではないけれども、理論上また潜在的には一つである。他方で聖霊の満たしは全く経験されていないのに、クリスチャンはキリストへのバプテスマを受けることによって『そのすべてを得た』と強調される場合に起こる。

    6. 最後の分析において、最も大切なものは聖霊の愛の力と臨在であって用語ではないということである。

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     2010.08.01 ガラテヤ人への手紙講解説教シリーズ
       − ブルースとダンとウォーターから学びつつ −

私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました」        
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  • 新約聖書 ガラテヤ人への手紙1章

    1. 私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。

    2. 私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわるべきです。

    3. 以前、私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている。

      • 参考文献

        • J.D.G.ダン著『叢書 新約聖書神学G ガラテヤ書の神学』新教出版社、pp.1-44

        • 村瀬俊夫論稿「パウロの生涯と思想」pp.38-53、「ガラテヤ人への手紙」pp.439-455、『新聖書注解』いのちのことば社

  • J.D.G.ダン著『新約聖書神学叢書 ガラテヤ人への手紙の神学』を読み終えた。その中に、「絶えずガラテヤ書に頼ることなしにはローマ書は理解しえない」と書かれている。このことを踏まえて、8月より、ローマ書講解説教シリーズに先んじて、ガラテヤ書講解説教シリーズにチャレンジすることにした。ダンにおいて示されている「パウロに関する新しい視点“New Perspectives on Paul”」を福音主義視点からどのように評価すべきなのか、ウォーターの分析・評価をも念頭に置き、ブルースの解釈あたりを落とし所として、「福音主義”信仰義認の教理”:再考」を取り扱いたい。

 



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