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ICI Daily & Diary Lectures

2012年度 ICI日誌

2017/05/25


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 ポスト・モダニズムとは何か/その意味と福音理解への影響
 広義の福音主義創造論−再考への視座 B C.ヴェスターマン
著『創世記T』
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  • 広義の福音主義創造論を再考していく道筋において、エリクソン著『キリスト教神学』から教えられるポイントとして、聖書解釈方法論における「聖書の批評的研究」と啓示論における「無誤性」についての定義があげられる。

  • エリクソンは、『キリスト教神学』第一巻、第一部「神を研究すること」、第四章「神学と聖書の批評的研究」を取り上げ、「@ルネッサンス以来登場してきた、さまざまな形態の聖書批評学を確認し、把握する。Aさまざまな形態の批評学における方法論を検討し、批評する。B聖書本文と写本に対するさまざまな形態の批評学に関して展開されている、現代の保守的な諸見解をそれぞれ比較する。Cさまざまな形態の批評学が、今日における我々の聖書研究にどのような影響を及ぼしているのかを示す。D批評学の諸種の方法論を適切に評価する。」と、その章における目的を明示し、諸種の説明と議論の展開の後に、福音主義神学の視点から肯定・否定の両面から評価し、方向性としては肯定的な視点からのガイドラインを提示している。「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」である。

  • また、エリクソンは、『キリスト教神学』第一巻、第二部「神を知ること」、第十一章「神の言葉の信頼性:無誤性」を取り扱い、「無誤性」を「聖書は、それが書かれた時代に文化と伝達の手段がどれくらい発達していたかということを考慮に入れて、また、それがどのような目的で与えられたものなのかという視点で正しく理解するなら、すべての記述について完全に真実である。」と定義している。エリクソンにとっての福音主義神学における「無誤性」とは、“時代性”と“目的性”の二点を視野に入れることなしには成立しない事柄なのである。

  • 以上のポイントを念頭に、もろもろの書籍の中から貴重な書籍を探すとき、その中の一冊にC.ヴェスターマン著『創世記T』をあげることがゆるされると思う。

 

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   ポスト・モダニズムとは何か/その意味と福音理解への影響
 広義の福音主義創造論−再考への視座 A
フラー神学校における動向
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  • 福音主義創造論においては、19世紀〜20世紀にわたる広範な議論がある。「組織神学」講義においては、エリクソン著『キリスト教神学』第二巻をテキストにして創造論を学ぶとともに、その周辺に存在する今日的な議論の動向についても学ぶことになる。ただ、時間の関係もあり、導入的かつ鳥瞰図的な学びで終わってきた。いつの日か、「福音主義“創造論”再考」というかたちでもう少し詳しくこれらの領域を扱う機会をもちたいと願ってきた。今回のシンポジウムにおいて、その第一歩としての機会をもつことができた。ただ、発題が30分であったので、全体を詳細に扱うことはできず、ポストモダニズム時代を背景になされている神学の取り組みの中で注目すべき邦訳本としてフランシス・コリンズの『ゲノムと聖書』があったので、この本のもつ意味を、ポスト・モダニズム時代における聖書観・聖書解釈と科学との対話という課題の中で取り扱うこととなった。

  • このような取り扱いを考えてみるのに、参考となる書籍として、青木保憲著『アメリカ福音派の歴史−聖書信仰にみるアメリカ人のアイデンティティ−』明石書店、がある。同志社大学大学院で書かれた博士論文がベースになっており、福音派とリベラル派の相互理解を深める架け橋のひとつとなるような内容で、序章:日米における福音派研究の歴史と現状、@福音主義から根本主義へ、Aファンダメンタリズム論争、B新福音主義の時代、C国家的危機の時代における福音派、D宗教右翼の黎明期、終章:「福音派」のアイデンティティとアメリカにおける彼らの存在意義、となっている。@AB章において、福音主義➡根本主義➡新福音主義のマクロなパースペクティブが把握できる。そして、聖書批評学や進化論、ディスペンセーション主義に関する議論の経過と、そのような議論を背景にしてどのようにして新福音主義が台頭してきたのかの展開が教えられる。特に、フラー神学校の動向についての経緯は、神学校において“新福音主義運動における神学”の総決算ともいえる内容をもつエリクソン著『キリスト教神学』を翻訳し、教え続ける小生にとって大変意義深いものを感じさせられる。神学校はフラーのようにはならないと思われるが、神学校がもつ教師陣と背景としての諸教会の多様性を考慮にいれると、フラーが内包した葛藤を神学校が内包し続けることにはなるのではないかと思うのである。このことは、神学校にとってきわめて大切な特徴のひとつとしてあり続けるのではないかと思われるのである。

  • 青木保憲氏の福音主義神学会西部部会での「アメリカ福音派研究の実際:日本での福音派研究との対比から」の研究発表のDVD講演録(1000円)は、他の研究発表・発題講演とともに、ICIあぐろを通して提供されています。

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 ポスト・モダニズムとは何か/その意味と福音理解への影響
   広義の福音主義創造論−再考への視座 @ KBIシンポジウム

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  • 「まとめ」より

    • 今回のKBIシンポジウムのテーマ「ポスト・モダニズムとは何か−これからの教会は、何をどのように判断し、どのような方向に進めば良いのか?−」にそって、

      1.    まず、三つの時代の特徴を比較しつつ、ポスト・モダニズムの時代とはいかなる時代であるのかをみた。

      2.    次に、エリクソン著『キリスト教神学』を中心に、このポスト・モダズムの時代において、聖書観・聖書解釈方法論・福音理解等がどのように変化しつつあるのかを分析した。

      3.    最後に、ポスト・モダニズムという多元化の時代において、福音理解の多様化現象を、コリンズの“バイオ・ロゴス”の内容と傾向を「広義の福音主義“創造論”再考」という領域で確認した。その中には、今の私たちには賛同できる部分とできない部分があることを理解している。

    •   私たちがKBIで学んでいるエリクソン著『キリスト教神学』の立場は、オールト・アース派であり、中道保守的な“漸進的創造論”の立場であるが、

    • 1.    創造論における「地球の年代」に関する諸説の紹介と地質学研究への洞察等をみても、これまでとは異なる新しい地平に挑戦している。

      2.    つまり18世紀以降の、被造物世界、また一般啓示の領域の研究である科学的学識との対話・交流を大切にし、ポスト・モダニズムの時代を背景にした「広義の福音主義創造論再考」への新しい道を切り開いているのである。

      3.    私たちは今、ポスト・モダン時代に生かされている。「これからの教会は、“広義の福音主義創造論:再考”という道筋において、何をどのように判断し、どのような方向に進めば良いのか?このことを考えていく上で、ひとつの“手がかり”としていただければ幸いである。

    • DVD講演録(1000円)は、一宮基督教研究所にて販売されています。

 

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    日本福音主義神学会西部部会2012年度秋期神学研究会議     
        『現代のパウロ解釈を考える
』DVD講演録
    −新しい視点"New Perspective"をめぐって−

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     一宮基督教研究所実践神学シンポジウム2012     
    
21世紀ポスト・モダニズムって何ですか?
−これからの教会は、何を判断し、どのように進めば良いのか−

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     アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー集中講義     
    『福音主義終末論 : 再考
DVD講義録 販売中!
    −宇田・エリクソン神学の脈絡において−

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  • 10月1-2日の一泊二日、アッセンブリー教団の関西地区教職者対象のアドバンスト・スクール・オブ・セオロジー集中講座が祝福のうちに修了しました。今回は、下記の大変充実した内容でもたれました。いつものように、ASTより講演者に著作権を尊重していただき、希望者にICI資料のひとつとしてお分かちできるようになりました。個別に購入されますと、合計7500円となりますが、セットで購入されます方には5000円とさせていただきます。レジュメと送料はサービスさせていただきます。注文された方の順に発送させていただきますので、希望者はメールにて、ICIあぐろまでご注文ください。

    1. 「近代における終末論」:自由主義神学発生以後、伝統的終末論がどのように変化していくのか。近代の諸見解と代表的人物と立場を紹介し、課題点をあげて考察する。[90分:1500円]

    2. 「ディスペンセーショナリズムの終末論」:いわゆるディスペンセーショナリズムの発生を歴史的に位置づけ、その歴史観と独自に体系化された終末論的見解およびその影響を検討する。[90分:1500円]

    3. 「21世紀の終末論の諸課題T」:旧新約の黙示文学と呼ばれるジャンルの聖書解釈の原則を学び、再臨、空中携挙、最後の審判を巡る諸説を比較検討する。[90分:1500円]

    4. 「21世紀の終末論の諸課題U」:教会内で特に議論されることの多いテーマである千年期と患難時代にまつわる諸説を並べ、英語文献の新しい知見を交えながら理解を深める。[90分:1500円]

    5. 信徒セミナー「世の終わりと教会の霊性」という概要でした。[90分:1500円]

    6. 講義レジュメ ←DVDの内容を確認したり、プリントアウトしたりできます。また、下記に講義・講演で使用しました「Note : Evangelical Eschatology : 再考」を掲載していますので、参考にしてください。


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           Note-037 : Evangelical Eschatology : 再考
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牧田吉和終末と事物性A.ファン・ルーラーの終末論の一つの神学的意図−
序として
1.創造における神と事物との関係
2.罪と事物との関係
3.救済と事物との関係
4.終末と事物との関係
5.ファン・ルーラーの神学的意図
6.ファン・ルーラーの神学的思惟の評価と問題点
結び

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           Note-036 : Evangelical Eschatology : 再考
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エリクソン著キリスト教神学
1.「第二節患難についての見方」「第四項 問題を解決すること
2.なぜ大患難後再臨説の立場がより好ましいものとして浮かび上がってくるのか
3.大患難前再臨説の立場は、
かなり不自然で聖書的支持を欠いている-再臨を二段階に分けること、三つの復活の仮定、そしてイスラエルと教会の鋭い分離聖書的基盤を維持することが困難
民族としてのイスラエルに関する預言教会とは別に成就される−千年王国決定的にユダヤ的性格をもつ−新しい契約の導入をもって起こる根本的な変化についての聖書の描写と容易に調和させることはできません。
4.大患難後再臨説を基盤にしますとき、
・より適切な解釈が可能
個々の選民が患難の期間中存在(マタイ24:29-31)−その苛酷さから保護される(黙示録3:10)−キリストの現れに同伴する出来事、空中において出会うTテサロニケ4:17
聖書の教えの全般的な趣旨大患難後再臨説の見方により適合−聖書は信者たちが経験する苦難や困難についての警告−聖書はそれらの災難から移去を約束していません−それらの災難に耐える力と打ち勝つ力を約束

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           #note-033 : Evangelical Eschatology : 再考
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エリクソン著キリスト教神学
1.「第一節千年王国の見方」「第四項 問題の解決
2.私たちは今、どの千年王国の見方を採用すべきなのかという問題
・神学はしばしばその情報の
すべてにおいて疑問の余地のないかたちで支持されるひとつの見方を見出すことができないということをこの議論の道筋において注目してきました。
・そのような状況においてなされなければならないことは、その選択肢のどれかひとつを選ぶというよりも、
より困難の少ない見方を見出す努力をすべきです。
3..私たちはここで、
・前千年王国説
対処できない聖書箇所はなく、またそれが適切に説明できない聖書箇所もないことに留意します。
6.また、前千年王国主義者の解釈は単一の聖書箇所を基盤としているものではありませんそれを暗示している箇所は聖書の中に数多く見出されます。
・たとえば、パウロは「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。」(Tコリント15:22-24)と書き記しています。“それから”(epeita eita)と翻訳されているその特別な副詞は時間的な順序を示唆しています。パウロは同時の出来事(tote)を示唆している副詞を使用することができました。しかし、彼はそれを使用しませんでした。
・私たちはまた、二つの復活は黙示録
20章においてのみ明白に語られているけれども、選ばれたグループの人々のおのおのの復活について示唆している他の箇所(ルカ14:14; 20:35Tコリント15:23、ピリピ3:11Tテサロニケ4:16)、また二段階の復活(ダニエル12:2、ヨハネ5:29)があるということを見るべきです。
・したがって、
私たちは無千年王国説よりも前千年王国説の見方の方がより適切であると判断します。

#note-030
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           Note-030 : Evangelical Eschatology : 再考
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R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』

1.イメージ表現を理解する
1.ヨハネの黙示録における異常なほど溢れ返る視覚的イメージ表現
自分たちの生きていた世界の認識を変えられてしまう象徴世界世界についてのローマ的な幻の強烈なイメージ公共建造物や宗教建築物、図像、彫像、儀式や祝祭、さらには神殿で巧妙に仕組まれた「奇跡」の、目に見える脅威(13:13-14参照)−すべてがローマ帝国の政治的権力壮麗な異邦宗教の強烈な印象
・こうした文脈において、ヨハネの黙示録の提供する一組の
キリスト教預言的な対抗イメージ−世界についての異なる幻ヨハネが4章で引き上げられるところの天からは世界がどう見えるか−キリスト教徒の想像力を一新する一種の浄化作用効果
一人の女の幻栄光に満ちた女神ローマ−アジア諸都市の多くの神殿で礼拝されていたような、ローマ文明の実に魅力的な擬人化ローマの売春婦男心を誘う女郎狡猾な魔女であって、その富と華美いかがわしい商売上がり妖妃イゼベルという旧約聖書の含みローマの真の性格−ローマの誘惑的な宣伝による幻影の背後に潜む道徳的堕落
2.ヨハネの黙示録のイメージは想像の中でこの書物の象徴世界に参加するように誘う喚起力を伴う象徴
・まず第一に、この書物の
驚くほど細心な構成−複雑に編まれた文学上の相互引照、並行、対比を織り出す−初めて読んだ時にも七回目に読んだ時にも七十回目に読んだ時豊かに貯えられた意味漸次明け渡してゆくよう企図された、手法の一つ
・第二に、
旧約聖書を暗示する言い回しに満ち満ちている−意味を伝達する−文学的鋳型化−極めて厳密かつ巧妙に用いる旧約聖書の暗示−意味の貯蔵庫旧約聖書の暗示旧約聖書の文脈や旧約聖書本文間の種々の結合関係を前提
3.旧約聖書の暗示が染み透っている当時の世界の神話的イメージもこだま世界の悪の根源、つまり悪魔、の象徴(12:3-9)−深々と旧約聖書に根差した象徴(3:14-15、イザ27:1)
広範な文化的余韻東方からの侵略という着想である(9:13-1916:12)−パルティア帝国による侵略の脅威−紀元一世紀のローマ帝国で非常に現実感のあった政治的恐怖ロシアによる侵略の脅威残忍で異質な文明による征服という含み
以前はいたが、今はおらず、そして底なしの淵からまさに上がって来ようとしている獣(17:8)−帝国を侵略する東方の王たち皇帝ネロいつの日かパルティアの大群を率いてローマ帝国を征服しに戻ってくると想像する当時の神話同時代の事実や恐怖や希望や想像や神話を反響させ、あるいは利用しながら、−キリスト教的預言の意味の構成要素
4.アジア七教会に宛てた書簡ヨハネ黙示録の状況性最初の読者たちに固有の社会的、政治的、文化的、また宗教的な世界における含蓄
読者の生きる世界と関わってその世界に対する読者の応答を改造し転換しようとする−余りにも文字通りに「現実の」世界や「現実の」世界で起こることを予言された事件として受け取る間違い神学的な意味と応答を喚起する力とを求めて読まれなければならない
5.例えば、七つのラッパ(8:6-9:21)七つの鉢(16:1-21)の災いについての記述
高度に図式化された文学様式自体出エジプトに伴うエジプトの災いヨシュアの軍勢によるエリコの陥落ヨエルの預言に描かれたいなごの大群シナイ山での神顕現同時代の恐怖であったパルティアの騎馬軍の侵略小アジアの諸都市が相当ひんぱんに被害を被っていた地震当時の地中海世界を震え上がらせたばかりのヴェスヴィオス山の噴火
・旧約聖書の暗示的な言い回しに鋳直した−事件の経過順を予言することにあるのではない−罪に満ちた世界に今にも降りかかろうとしている神の審判の意味
6.七つの鉢のうち最後のもの−空前規模の地震によるバビロン崩壊という結果をもたらす(16:17-21)
バビロンは今や売春婦として描かれる獣と十人の王たちによって裸にされて、貪り食われ、焼かれる−伝統的な娼婦の処罰が、軍隊に略奪されて根こそぎ破壊される都のイメージの上に二重写し
包囲されて灰燼に帰すまで焼き尽くされた都というイメージ市中は砂漠の生き物たちの巣窟(18:2)−都を焼く煙が永遠に立ち上る(19:3)
字義レベルにおいては、これらのイメージはまるで互いに食い違っている神学的な意味のレベルにおいては、バビロンの陥落の意味に関して旧約聖書や同時代の神話を暗示補足的な視点を提供
16:17-21の地震は、最後の審判を下しに来る聖なる神の顕現を伴うネロがローマを破壊しに戻ってくるという同時代の神話
・神学的な意味のレベル
においては、悪が神の審判によって滅ぼされる神の審判の火ソドムとゴモラの破壊
旧約預言の描くエドムとバビロンの運命ローマに告げる神の審判が持っている旧約聖書的意味と神学的意味驚くほど多様に、しかし一貫して喚起
・その審判がどのように起こるのかを予言したものとして読もうとすれば−支離滅裂の混乱に変えてしまって本当の要点を見失ってしまう

ヨハネ黙示録のイメージ表現の持つ神学的意味−綿密かつ適切に研究する必要イメージ表現の性質とその意味の伝達手法の誤解−誤った解釈の原因
イメージ表現の文学的な用法神学的な思想と伝達のための顕著な手法へと発展その方法を強調することが必要となる。
それらのイメージは意味を相当厳密に表現連想の広がりを喚起その豊かな意味を限られた紙面に凝縮
神学の方法と概念形成新約聖書中最も洗練された文学作品の一つ初期キリスト教最大の神学的業績の一つその文学的な偉大さと神学的な偉大さとは不可分

#note-029
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           #Note-029 : Evangelical Eschatology : 再考
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R.ボウカム著『ヨハネの黙示録の神学』

  • 1.ヨハネの黙示録とは如何なる性質の書物か
1.キリスト教預言としてのヨハネの黙示録
2.黙示としてのヨハネの黙示録★
3.他の黙示との相違
4.回覧書簡としてのヨハネ黙示録

1.ヨハネの黙示録とは如何なる書物
1.黙示録の性質に関する誤解→誤った解釈
2.冒頭の数節−黙示録の三つの文学的性質
3.「啓示」あるいは「黙示」(1:)
4.「預言」(1:3)
5.「書簡」(1:4-6)
6.七つの教会に宛てた回覧書簡という形式を取る黙示預言
7.二章・三章=諸教会に宛てた七通の「書簡」×
8.黙示録全体=丸ごと、七つの教会に宛てた一通の回覧書簡○
9.ヨハネの黙示録=三つの文学的範疇−黙示・預言・書簡
2.キリスト教預言としてのヨハネ黙示録
1.ユダヤ人キリスト教預言者としてのヨハネ
2.授かった託宣の伝達幻による啓示の報告
3.即興的な預言と推敲され考究された構成
4.驚くほどの細心の技巧をもって構成された文学作品
5.長期にわたる反省執筆の過程を経た文学作品
6.語られる預言と書かれる預言(記述預言)
7.旧約預言と後期ユダヤ教黙示文学
8.旧約預言を取り上げて再解釈
9.旧約預言伝統の頂点に立って書く
10.旧約預言の終末論的託宣のすべてが遂に成就
11.旧約預言を再解釈し、ヨハネの預言的啓示の中にまとめ上げる
12.小羊、つまりメシア・イエスの勝利において、旧約預言者の期待が成就
3.黙示としてのヨハネ黙示録
1.旧約預言とユダヤ教黙示−預言と黙示の連続性や相違の程度と質について
・ダニエル書は、ヨハネの用いた主要な旧約資料のひとつ、これを彼は確実に預言書と考えていた
・ヨハネの黙示録が
如何なる意味で黙示と呼ばれる古代宗教文学類型に属するのか?
2.J.J.コリンズ「‘黙示’とは、
物語の枠をもった啓示文学の一類型である。
・その中で、
異界の存在者によって啓示人間である受け手に取り次がれて、超越的な現実が明かされる。
・その現実は
終末論的な救済をもくろんでいるという点では時間的なものであり、
・超自然的な別世界
にかかわっているという点では空間的なものである。」
3.現存するユダヤ教黙示において、
幻視者に啓示される天の秘密相当広範囲に渡る話題を網羅しており、歴史と終末論が排他的関心対象とはなっていない。
・しかしながら、ヨハネの黙示は
専ら終末論を関心の対象としている。
・つまり、
終末論的な審判と救済、そして彼の書いている現在の状況に対する影響が関心対象となる。
4.彼が受ける天の啓示は、神が世界に対する終末論的な目的達成するために歴史で行う活動に関わっている。
・言い換えれば、ヨハネの関心は
専ら預言的である。
・彼は
黙示という文学類型預言の伝達手段として用いる。
・ヨハネの著作は、預言的黙示あるいは黙示的預言と呼ぶのが一番いいだろう。
5.ヨハネの著作が黙示文学の伝統に立っている際の二本の大道がある。
・まず第一に、ヨハネの著作は
この世界を見下ろす超越的な展望の開示を伝えるという点で、預言的黙示である。
・つまり、それは
具体的な歴史的状況−紀元一世紀の終わりを迎えようとしているローマ帝国属州アジアのキリスト教徒のそれ−を相手に語りかけ、読者たちに神の預言的言葉をもたらし、彼らが自分たちの現状の中に神の目的を洞察し、その目的に相応しい仕方で現状に応答することを可能にする。
6.このように神の目的を文脈に即して伝えることは、旧約伝承に典型的である。
・しかしヨハネの著作は黙示的でもある。
・というのも、それが神の目的である
預言的洞察力をもって現状を見極めることを読者に可能とさせる手段とは、異なる視点からこの世界を眺めるために、ヨハネが言わばそこから連れ出された、幻の内容を開示することだからである。
7.この点、ヨハネの著作は幻の開示という黙示的伝統に属している。
幻視者は幻のうちに天上にある神の玉座の間に連れて行かれ、神の目的の秘密を学ぶのである。

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           Note-028 : Evangelical Eschatology : 再考
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安黒務「How JEC ?」JEC News 論稿

大和朝廷以来の天皇制のもつ宗教性と北イスラエル王国ヤロブアムの罪
日本の政治と教育における右傾化の流れ改訂教育基本法の背景を理解する一助となる書籍にサッチャー改革に学ぶ教育正常化への道があり、その序文に平沼赳夫衆院議員の「日本の政治に、いま大きな流れが生まれてきています。そこには政治の原点にかかわる、二つのキーワードがあります。一つは憲法、もう一つは教育基本法です。日本国憲法にのっとり制定された教育基本法では、個人の尊厳というものが強調されていますが、その一方で日本の歴史、伝統、文化、あるいは家族の結びつき、こういう大切なものがなおざりにされてしまっています。自分の国の歴史、伝統、文化に誇りが持てない教育は、国の存亡を危うくする。こうした危機感をもって二十年以上も前から草の根運動を展開してきた団体に日本会議』…があり、私はこの日本会議とともに元号法制化運動国旗国歌法の制定などを行ってまいりました。教育基本法改正促進委員会を設立したところ、党派を超えて388名もの国会議員に加盟していただきました。」という言葉があります。またその監修者の中西輝政京大教授には皇室の本義という著書があり、その中で「かつて森善朗元首相が日本は天皇を中心とした神の国と発言し、大きな物議をかもした。だがこの発言ほど、日本のアイデンティティの根幹をついたものはない。…『天皇を中心とした神の国こそ、日本の政治の根幹である。そして、天皇なしに、日本という国は成り立ちえない。」と記述しておられます。これらの文章からも現在の日本の政治と教育における一連の右傾化の流れを読み取ることができます。
■天皇制とクリスチャンの意識日本のクリスチャンの天皇制に関する意識の「天皇制否定タイプの共存型」の場合、「キリスト教の立場から天皇制国家に一応否を言うのであるがの言い放しでなく、天皇制にキリスト教の影響を及ぼすことによって天皇制をキリスト教化しようとする」ものである。そして「天皇がイギリスの皇帝のようになるのが望ましい」「天皇(あるいは国家)をキリスト教化することによって、天皇制国家を神の御旨にかなったものにする」「天皇をキリスト教化しさえすれば天皇制でもよい」「キリスト教が徹底すれば天皇制はなくなる」等々の立場があります。神戸神学館の瀧浦滋校長はこれらの可能性について「安易な天皇回心論はひとつの誘惑です。王キリストへの天皇の回心は、回心というからには、当然、キリストの神を唯一の神と認めることです。他の神々があってはならない(十戒・第一戒)ことを受け入れることです。したがって天皇家の宗教である国家神道の廃絶を意味します。必然的に、天皇家の祭祀はすべて廃止されます。天皇の回心を祈ることは、論理的・実際的に国家神道と現行天皇制の廃絶を祈ることなのです。」と述べておられます。
大和朝廷以来の天皇制のもつ宗教性北イスラエル王国ヤロブアムの罪戦後、日本国憲法により象徴天皇制が成立しますと、天皇は内閣の助言に従って国事行為のみを行うこととされましたが、天皇の私事行為においては依然として古来よりの司祭者的性格を色濃くとどめています。クリスチャンとしての立場から考えさせられる点は、ソロモン王の死後に分離独立した北イスラエル王国が建国以来内包した偶像礼拝との類似性です。「王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」(T列王12:28) 北王国の創始者ヤロブアムは、二つの王国の分離を持続させるための政策として、エジプトの宗教、子牛礼拝を新王国の国教に採用しました。神礼拝はダビデの家とユダの人々の同義語となっていました。子牛はユダからのイスラエル独立の象徴と見なされました。ヤロブアムは子牛礼拝を北王国の民の心に深く植えつけたので、王国が滅亡するまでこれはついにぬぐい去ることができず、北王国の王十九名はみな金の子牛礼拝に従いました。今日の日本の多くの政治家、教育界指導者にとって「日本のアイデンティティの中核」は、貴族政治、武家政治、明治以降の官僚政治のすべての時期において陰に陽に存在してきた「大和朝廷による統一国家の成立、つまり建国以来日本の神々を祀る司祭者としての天皇、現人神としての天皇の宗教的権威」に置かれていることに無警戒であってはなりません。

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           Note-027 : Evangelical Eschatology : 再考
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安黒務「How JEC ?」JEC News 論稿

十戒と日本キリスト教史
「あなたには、わたしのほかにほかの神々があってはならない。」モーセの十戒の第一戒は、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」という文脈の下で語られています。神の民イスラエルは十の災害の後にようやく奴隷の家から解放されました。ここで教えられるひとつのことは、これほどまでの災難に見舞われながらもなお神の民を「奴隷の状態」に縛り付けておこうとする「エジプトの国」の恐るべき執着です。日本国“Japan”におけるクリスチャンの歴史を紐解いてみますとき、わたしは同じ執着を見ます。
第一期「キリシタン」の時代1549-1867)、群雄割拠の戦国時代から集権的封建国家の形成されていく時代において、信長による「宣教の自由」の時期、秀吉による「宣教師追放」の時期、家康による「キリシタンを根こそぎ」にする時期等がありました。踏み絵や五人組制度を通して、背教をせまり、応じない者は酷刑に処し、多くの殉教者を出しました。クリスチャンは隠れキリシタンとして潜伏するか、国外に追放されました。
第二期「国家神道と教育勅語」の時代1868-1945)、国家神道は、明治維新以後、第二次世界大戦の敗戦にいたる約八十年間にわたって日本国民を支配していた国家宗教です。それは、帝国憲法は「天皇制の枠内」での信教の自由に制限し、教育勅語は「天皇制的国民」教化の基準として国家神道教育の基礎となり、「イエ」においては祖先をまつり、「ムラ」においては氏神をまつり、「クニ」においては天皇を崇拝する「敬神崇祖」を主軸とする国体の教義として完成していきました。
戦後、この時代の「天皇制とキリスト者」の意識を調査した武田清子教授は、日本のキリスト者の天皇制に関する意識を、@天皇制を幹とし、キリスト教を枝とする「伝統主義」タイプ、A天皇制とキリスト教を楕円の二つの中心にして共存させる「共存」タイプ:A.天皇制肯定型「共存」タイプとB.天皇制否定型「共存」タイプ、B天皇制とキリスト教を対立するものとする「対決」タイプの三タイプ四種類に分類しています。
そのひとつ、天皇制肯定型「共存」タイプのクリスチャンは、戦争中に強要された神社礼拝、宮城遥拝、御真影(天皇や皇后の写真)や神棚への拝礼に対しても、それらは「信仰の事柄」ではなく「愛国心の事柄」として従った人々です。その人々は「形では神社や御真影に拝礼し、心の中では神に祈った何の矛盾も感じなかった。」という回答を寄せています。国家は巧妙なかたちで国体(国のアイデンティティ)への従属をせまり、多くのクリスチャンが妥協に追い込まれました。国家神道教育と時代の風潮の恐ろしさです。
第三期「平和憲法と教育基本法」の時代(1945-2006)、悲惨な戦争を通してでしたが、日本人クリスチャンは日本の歴史始まって以来、はじめて真の信仰の自由を手にしました。マッカーサー将軍に対する評価はいろいろありますが、「クリスチャンに真の信仰の自由を与えた」という意味では、モーセによる出エジプトに比する出来事でした。
第四期「新教育基本法と(憲法改正?)」の時代 (2006)私たちは預言者の眼をもって、この法律の美辞麗句の裏に「パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」(出14:5)というクリスチャンに対する仕掛けが隠されているのを見抜いていかねばなりません。

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           #Note-026 : Evangelical Eschatology : 再考
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こんばんは。今夜は、アッセンブリー教団の信徒の皆様に対して、「世の終りと教会の霊性」というテーマでお話しできることを感謝しております。
「福音主義終末論:再考」というテーマで、今日の午後に二つの講義、明日の午後に二つの講義をさせていただいている最中であります。長編映画などの場合、二部構成になっており、前篇と後編の間に幕間があり、時には前半の復習と後半への導入が語られたりすることがあります。そのような意味で、ちょうど真ん中の幕間にあります今夜の信徒セミナーでは、この二日間の集中講義でお話しします「終末論講義の中にある中心となるメッセージ」をお分かちしたいと思います。「聖書と黙示録にあります終末論」における中心的なメッセージとは一体どのようなメッセージなのでしょうか。ヨハネが流刑地パトモス島で聞いたメッセージとは?わたしたちは今夜、黙示録からいかなるメッセージを聞き取るのでしょうか。
岡山英雄著小羊の王国』…日本の場合、第二次大戦中、軍による政治的支配は、国家神道に基づく天皇崇拝と深く結びついていた独裁者は、祭神として宗教的権威を持ち、熱狂的な民族主義と結びついて、破局へと国民を駆り立てたのである。当時、日本の教会は、黙示録13章の、二匹の獣の意味を理解することができず、「獣」の礼拝と「小羊」の礼拝を同時に行い、ついに証人としての力を失った
牧田吉和:日本福音主義神学会全国研究会議で神戸改革派神学校校長の牧田吉和師は、その講演「三位一体論的・終末論的・神の国的霊性の展開 」の中の「対国家との関係における神の民の霊性」において、「キリストのみを唯一の王と告白し、キリストの王的支配の下に生きようとする時(聖霊に導かれて生きる者は必ずそのように生きる者である!)、最大の脅威となりうるのは国家的脅威であることは歴史が証明している。すなわち、国家的権威が悪魔的な力を帯び始める時、キリスト教的霊性はあらゆる点で危機にさらされるからである。あらゆる領域において悪魔的な力に脅かされるのである。この問題は、日本の教会が歴史的に経験し、今も現実に置かれている状況を考える時、どれほど真剣な問題であるかが容易に理解できるはずであるヨハネの黙示録を霊性の観点から読むならば、少なくともこの点をはずすことはできないはずである。この問題を考慮する時、苦難と迫害を通して栄光に至るという霊性の道筋は最も鋭い意味合いを持ってくることになろう。今一度指摘しておくが、この問題を考慮しない霊性理解は、特に日本の教会を念頭に置く時、致命的な欠陥を持つものとなるであろう。」と語られました。
そのような意味において、今夜の信徒セミナーのテーマをもう少し具体的に掘り下げますと、「ヨハネの黙示録に示されている日本における教会の霊性の道筋の探求」ということになるでしょうか。
このテーマを最も掘り下げた論文として、岡山英雄先生の「患難期と教会」という論文がありますので、その内容を紹介しつつ、日本の歴史、日本の教会の歴史、今後予測される道筋、その道筋を黙示録のメッセージがどのような光をわたしたちに注ぎかけられているのかをみていきたいと思います。
参考文献・資料
ウルリッヒ・ヴィルケンス著ローマ人への手紙教文館黙示文学的背景におけるハバクク書の「義人は信仰によって生きる」解釈の展開としての義認・聖化・栄化に至る道筋
聖書神学事典、いのちのことば社、安黒務論稿「苦難のしもべ」イザヤ53章の解釈
説教ノート「ピリピ人への手紙」西宮ECサマーキャンプ・メッセージ準備ノート

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           Note-025 : Evangelical Eschatology : 再考
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参考文献

近藤勝彦著現代神学との対話ヨルダン社、「現代神学におけるイスラエル論」

H.ベルコフ著キリスト教信仰−信仰の学びのための手引き

1.まず第一は、ベルコフがイスラエルの歴史を「契約史」として捉えることである。
2.次に、ベルコフによれば、旧約聖書に示されているイスラエルの道は、「一つのカテゴリーに包摂されることはできず、弁証法的に記述されなければならない。」
3.第三に、イスラエルとイエス・キリスト、あるいは旧約聖書と新約聖書の関係について語られる。それはキリストからイスラエルへ、あるいはその逆のイスラエルからキリストへのいずれにせよ一方通行的関係ではなく、「それらの両方向が必要であり、両方向が相互に補い合う」のだと言われる。
4.第四に、イエス・キリストの出来事以後のイスラエル、その意味と存続の問題がある。

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           Note-024 : Evangelical Eschatology : 再考
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Vern S. Poythress, “Understaning Dispensationalists” P&R,
「事実、ディスペンセーション主義者はときどきさらに移行している。預言は前置き的なかたちで教会時代最終的なかたちで千年王国時代の双方において成就されるものとしてみられている。しかし、もしそうなら、教会はイスラエルの預言的遺産にかならずしもよそ者ではない。むしろ教会は前置き的なかたちでそれにあずかっている。クリスチャンは今、成就の中心であるキリストと結びあわせられているゆえに、アブラハムの約束の成就にあずかっている。しかしながら、約束のまったき成就は未来においてもたらされる。ここには、ひとつはイスラエルに、もうひとつは教会というかたちでのふた揃いの並行する約束があるわけではない。そこには、ひとつはイスラエルに、もうひとつは教会にという並行する運命はもはや存在しない。むしろ、そこには一揃いの約束と目的の前置き的なかたちと最終的なかたちの相違する歴史的段階が存在する。そして、それゆえ、キリストの復活以後、終末においてユダヤ人と異邦人はひとつのからだに編入された、事実ただ唯一の神の民のみが存在する。(参照:ローマ11:16-32)この点において、ディスペンセーション主義者は、ジョージ・ラッドの立場のような古典的な歴史的千年王国前再臨説に近い立場になっている。古典的千年王国前再臨説は、肉体を伴ったキリストの再臨のもとでの大いなる地上的繁栄の明確な期間があることを信じている。この期間に続いて、普遍的な復活と新しい天と新しい地の創造完成あるいは永遠の状態がある。しかし、それは神の二つの民とか二つの並行する運命を区別しない。あるディスペンセーション主義者の学者たちはこの見方に同意する。彼らは、彼らが国民的・民族的イスラエルの継続的重要性(ローマ11:28-29)を強調することを望んでいるゆえに、まだ彼ら自身をディスペンセーション主義者と呼ぶ。彼らはまだ、パレスチナの土地に関するアブラハムの約束」は千年王国時代において、民族的イスラエルの上に文字通り成就するのをみることができると期待している。P.37-38」「わたしは、プログレッシブ・ディスペンセーション主義者が古典的ディスペンセーション主義の幾つかの主要点」を乗り越える取り組みをしてきた探求に対して個人的共感と評価を抱いている。わたしは、彼らが以前よりもさらに誠実に聖書的真理をわたしに表現しているように思えるゆえに、彼らが取り組んでいる動きをみて嬉しくおもう。わたしはまた、彼らの取り組みにおいて明らかにされている調和的な論調を評価している。しかしながら、彼らの立場は本質的に不安定である。わたしは、彼らが古典的ディスペンセーション主義と契約的ブレミレニアリズムの間に神学的に安全な港を創造するだろう、とは思わない。彼ら自身の観察が動かしてきた諸力はほぼ確実にジョージ・E・ラッドのパターンの後を追う契約的プレミレニアリズムに導くことになるだろう。P.137
G.E.Ladd 『神の国の福音』,”The Last Things”,”The Blessed Hope”
R.G.Clouse “The Meaning of the Millennium –Four Views-” IVP
S.J.Grenz “The Millennial Maze –Sorting out Evangelical options-”

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           Note-023 : Evangelical Eschatology : 再考
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John A. D’elia, “A Place at the Table –George Eldon Ladd and the Rehabilitation of Evangelical Scholarship in America-”, Oxford,
ジョージ・ラッドは、アメリカにおける第二次大戦後の福音主義の再起の中で枢要な人物であり、その最も重要な学者のままである。彼自身の時代においては、エドワード・ジョン・カーネルのような哲学者であり神学者によって、少なくとも部分的には影が薄くされていた。
しかし、ラッドは二十世紀の終わりの数十年に、この時代のアメリカの福音主義に最も大きな影響をもたらし続けた存在として現れた。ディスペンセーション主義の指導者たちでさえ、神学の種々の鍵となる諸教理と終末論に関してラッドの立場にますます接近し続けているP.176
「ディスペンセーション主義に関して、ダニエル・フラーは、2000年になってダラス神学校は1955年にジョージ・ラッドがいた場所についに追いついたと論評した。P.181」「高く評価される福音主義の学者たちの世代は、最高水準の学術論文において彼らにドアを開き、そのテーブルに居場所を設けてくれたゆえに、ジョージ・ラッドに払うことのできない負債を負っている。P.182

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           #Note-022 : Evangelical Eschatology : 再考
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W.Grudem"Systemayic Theology"
 福音主義プロテスタントの間に、イスラエルと教会の関係の問題の見方において相違が存在する。この問題は、“ディスペンセーション”の神学体系を保持する人々において顕著である。ディスペンセーション主義者によって書かれた最も広範な組織神学書であるルイス・スペーリー・シェイファーの組織神学書は、イスラエルと教会、そしてさらに旧約聖書にあるイスラエルを信じることと新約聖書にある教会を信じることの間にある多くの相違点を指摘している。シェイファーは、彼が贖われた二つの異なった人々の民に対する二つの別個の計画をもっていると主張している。イスラエルに対する神の目的と約束は地上的な祝福である。そしてそれらは未来のある時にこの地上においていつの日か成就されるであろう。他方、教会に対する神の目的と約束は天的な祝福である。それらの約束は、天において成就されるであろう。神が救われる二つの群れの間のこの相違は、特に千年王国において見られる。シェイファーによれば、その時にイスラエルは神の民として地上において支配し、旧約聖書の約束の成就を喜ぶ。しかし、教会は聖徒たちのためのキリストの秘密の来臨(“携挙”)のときにすでに天に挙げられている。この見方に関して、教会はペンテコステ(使徒2)まで始まっていなかった。そして、旧約聖書時代の信仰者と新約聖書時代の信仰者をひとつの教会を構成するものとして考えることは正しくない。
 シェイファーの立場は幾つかのディスペンセーションの範囲内で、より大衆的な説教においては間違いなく影響を持ち続けている。しかしより最近のディスペンセーション主義者の間の数多くの指導者たちは、それらの多くのポイントにおいてシェイファーに習っていない。ロバート・サウシー、クレイグ・プレイジング、ダレル・ボックのような、最近の幾人かのディスペンセーション主義の神学者たちは、彼ら自身を“プログレッシブ・ディスペンセーション主義者 ”と紹介している。そして彼らは幅のある以下の事柄を手にした。彼らは、教会神の計画の中の挿入としてはみない。彼らは教会を神の国を樹立する第一歩としてみる。プログレッシブ・ディスペンセーション主義の観点において、神はイスラエルと教会に対して二つの別個の目的をもたない。神は、イスラエルと教会が一緒に分かち合う神の国の樹立という単一の目的のみをもたれる。プログレッシブ・ディスペンセーション主義は、すべては神の一つの民の一部分であるのだから、未来の永遠の状態においてはイスラエルと教会の間に相違を見出さない。さらに、彼らは教会は千年王国の間地上で栄光のからだにおいてキリストとともに支配すると主張する。
 しかしながら、プログレッシブ・ディスペンセーション主義者と他の福音主義との間にはひとつのポイントにおいてまだ相違が残されている。彼らは、イスラエルに関する旧約聖書の預言は、なキリストを信じる民族としてのユダヤ人によって千年王国期に成就され、あらゆる民族が見て学ぶように“模範的民族”としてイスラエルの土地に住むと言う。それゆえ、彼らは、それらの預言がなお民族としてのイスラエルに成就するゆえに、教会が“新しいイスラエル”であるとか、イスラエルについての旧約聖書の預言のすべては教会において成就するとは言わない。
 この書で取り上げている立場は、この問題に関するシェイファーの観点からは少し相違する。また、プログレッシブ・ディスペンセーション主義者とも幾分かは相違する。しかしながら、未来についての聖書の預言が成就する正確な道筋への問いは、問題の性質上、確実性をもって決定することは困難であるとここで言わなければならない。そしてそれらの事柄に関し幾分試験的な結論を手にすることは賢明なことである。このことを留意しつつ、以下のことが言える。
 ディスペンセーションの立場以外のプロテスタントとカトリックの双方の神学者は、教会は旧約聖書時代の信仰者新約聖書時代の信仰者両者をひとつの教会、またひとつのキリストのからだに包摂していると語ってきた。非ディスペンセーション主義的見方においてさえ、未来においてユダヤ人の大規模の回心が起こる (ローマ11:12,15,23-24,25-26,28-31) 、しかしこの回心はユダヤ人信仰者が神のひとつの教会の一部分と結実する彼らは“彼ら自身のオリーブの木に再び接ぎ木”されるのみであると主張する。
 この問題に関して、私たちは、教会を“新しいイスラエル”また新しい“神の民”と理解している多くの新約聖書箇所に注目すべきである。「キリストは教会を愛し、御自身を彼女に与えられた」(エペソ5:25)という事実は、このことを示唆している。さらに、教会に非常に多くのクリスチャンの救いをもたらしている現在のこの教会時代は、神の計画の中での中断とか挿入ではない。ご自身の民へと呼びだす旧約聖書を通じて明らかにされている神の計画の継続である。パウロは「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです」(ローマ2:28-29)と語っている。パウロは、肉的にアブラハムの子孫である人々がユダヤ人と呼ばれる文字的また生来的な意味があるけれども、“真のユダヤ人”とは人目に隠れた信仰者である人、そして心が神によってきよめられた人であるとより深く、また霊的な意味があるとはっきり認めている。
 パウロは、アブラハムは肉的な意味でユダヤ人の父と考えられるだけではない、と語っている。彼はまたより深いまたより真実な意味において「彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです」(ローマ4:11-12; cf.vv.16, 18)。それゆえ、パウロは「しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるのだからです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです」(ローマ9:6-8)と言うことができる。パウロはここで、最も真実な意味で“イスラエル”である人々、アブラハムの真の子供は、アブラハムの肉的な血統によるイスラエル民族ではなく、キリストを信じる人々であることを意味している。真にキリストを信じる人々は今、主によって“わが民(ローマ9:25、ホセア2:23からの引用)と呼ばれる特権にあずかっている人々である。それゆえ、教会は今神の選ばれた民である。このことは、肉によるユダヤ人は未来のある時に大規模に回心するとき、彼らは神の分離された民であり続けることはなく、彼らは「彼ら自身のものであったオリーブの木に接ぎ木」される(ローマ11:24)。このことを示唆しているもうひとつの箇所は、ガラテヤ3:29の「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」である。同様に、パウロは、クリスチャンは「真の割礼の者(ピリピ3:3)であると語っている。
 イスラエルの民から分かたれた群れとしての教会について考えることから離れて、パウロは、彼らが以前は「イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人」(エペソ2:12)であった。しかし、今や彼らは「キリストの血によって近い者とされた」(エペソ2:12)と彼らに語りかけるようにエペソにいる異邦人信仰者たちに書いている。そして異邦人が教会に加えられたとき、ユダヤ人と異邦人はひとつの新しいからだに統合された。パウロは、神は「二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄され二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです」と語っている。それゆえ。パウロは、異邦人は「聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」と言うことができた。新約聖書の教会に対する旧約聖書の背景の広範な自覚に関して、パウロはなお「異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり」(エペソ3:6)ということができた。その箇所全体は、ユダヤ人信仰者と異邦人信仰者がキリストあってひとつのからだに統一されることについて力強く語っている。そしてキリストのひとつのからだである教会の包摂されずに救われ、ユダヤ民族に対する別個の計画があるとのいかなる示唆も決して与えられていない。教会は、それ自身の中にすべての真の神の民を合体させる。そして、旧約聖書の神の民に使用されてきた称号のほぼすべてがいろんな箇所で新約聖書の教会に適用されている。
ヘブル8章は、教会をイスラエルに関する旧約聖書の約束の受領者、そしてその成就としてみることに関するもうひとつの論拠を提供している。クリスチャンが属する新しい契約について言及する脈絡なおいて、ヘブル書の著者は、「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(ヘブル8:8-10)と言われるエレミヤ31:31-34からの広範な引用を与えている。ここで著者は、イスラエルの家とユダの家と新しい契約を結ぶという主の約束を引用する。そしてそれは今教会と結ばれた新しい契約であると語っている。その新しい契約は教会にいる信仰者が今一員である契約である。著者が、旧約聖書のイスラエルへの約束の成就を見出しているのは、真の神のイスラエルとしての教会であると見ているという結論を避けることは困難であると思われる。
 同様に、ヤコブは多くの初期のキリスト教会への一般書簡を書いた。そして彼は「国外に散っている十二の部族へ」(ヤコブ1:1)書き送ったと語っている。これは明らかに、彼が新約聖書のクリスチャンをイスラエルの十二部族の継承者であり、成就であると見ていることを示唆している。
 ペテロもまた、同じふうに語っている。彼は「散って寄留している」読者に呼びかけている最初の節から、彼が「バビロン」(Tペテロ5:13)と都市ローマに呼びかけているほとんど最後の節まで、ペテロはしばしば、イスラエルに与えられた旧約聖書のイメージと約束の観点で新約聖書のクリスチャンについて語っている。この主題は、神が旧約聖書におけるイスラエルへ約束された祝福のほとんどすべてを授けられたとペテロが語っている、Tペテロ2:4-10において顕著である。クリスチャンが神の新しい“神殿”(5)であるゆえに、神の御住まいはもはやエルサレムの神殿ではない。クリスチャンは今、神の御座(4-5, 9)に近づくことのできる真の“王である祭司”であるゆえに、神に受け入れられる犠牲をささげる祭司はもはやアロンの家系を必要としない。クリスチャンは今真の“選民”(9)であるから、神の選民はアブラハムから血縁的な子孫の人々であるとはもはや言われない。クリスチャンは今神の真の“聖なる国民”(9)であるから、神によって祝福された国民はイスラエルの国民であるとはもはや言われない。クリスチャンユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいま“神の民”であり、“あわれみを受けた”者であるから、イスラエルの民はもはや神の民であるとはいわれない。さらに、ペテロは旧約聖書の脈絡から、神が彼に対して執拗に反逆し、彼が据えられた尊い“礎石”(6)を拒絶する彼の民を退けられることを繰り返し警告しているそれらの引用を取り上げている。教会は今神の真のイスラエルであり、旧約聖書においてイスラエルに約束されたすべての祝福を受け取ることを確信をもって私たちに話すために、これ以上どんな言及が必要とされるのか。
ルイス・スペーリー・シェイファー、組織神学。通常ディスペンセーション主義者に特徴的な幾つもの特有の教理があるけれども、おそらく神の全包括的な計画における二つの民としてのイスラエルと教会の相違が最も重要である。ディスペンセーション主義者によって保持されている他の教理には通常、大患難期前の天への教会携挙、イスラエルに関する旧約聖書預言の未来における文字通りの成就、神の民に関する神の取り扱い方の七つの時期あるいは“ディスペンセーション”に聖書の歴史を分けること、教会時代を時代の間の神の計画における挿入として理解すること、主としてユダヤ人がイエスを彼らのメシヤとして拒否したときに制定された挿入。しかしながら、今日の多くのディスペンセーション主義者はそれらの特徴の幾つかを修正したりあるいは拒否したりしている。体系としてのディスペンセーション主義は、英国のJ.N.ダービー(1800-1882)の著作をもって始められた。そしてスコーフィールド・リファレンス・バイブルを通して米国で広まった。
  参照:Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism(Grand Rapids: Zondervan, 1993), and Darrell L. Bock and Craig A. Blaising, eds., Progressive Dispensationalism(Wheaton: Victor, 1993). John S. Feinberg, ed., Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments(Wheaton: Crossway, 1988)
  私はディスペンセーション主義者ではないけれども、その用語を通常理解されている意味において、ローマ9-11章は未来におけるユダヤ人の大規模な回心を教えていると確信している。
  ディスペンセーション主義者は、教会がイスラエルに関する旧約聖書預言の多くの適用の受領者であるとする。しかしそれらの約束の真の成就は今なお民族としてのイスラエルの未来においてもたらされるという点を許容する。しかし、教会へのそれらの約束についての、それらすべての明確な適用の新約聖書の実例に関して、このことが本当に、神がそれらの約束を与えようとしておられる唯一無二の成就であることを否定するいかなる強固な理由も存在しているようには思われない。

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           Note-021 : Evangelical Eschatology : 再考
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参考文献

C.B.Bass”Backgrounds to Dispensationalism” WIPF and Stock
「結びの言葉」by C.B. Bass

この本の命題は「ディスペンセーション主義は教会の歴史的信仰の一部分ではない。ディスペンセーション主義が定式化される以前に18世紀間に渡って歴史的千年王国前再臨説の聖書解釈が存在してきたのだから、ディスペンセーション主義は唯一の千年王国前再臨説の見解ではない。そして、ディスペンセーション主義は聖書解釈において誤った解釈学の原理を基盤としている」というものである。わたしはこれらの命題を立証しえたかどうか、読者の判断に委ねたい。
 しかしながら、整理が必要とされるもう別の局面が存在する。ディスペンセーション主義聖書解釈法に内在する幾つもの極端な要素にもかかわらず、ディスペンセーション主義の聖書解釈は、「イエスが再臨の日には人格的に、文字通り、目に見えるかたちで地上に戻って来られる」という真理をきわめて明確に系統立てて説いている。歴史的千年王国前再臨説も同じく、無千年王国説もまた同様である。それらの諸説は教会の祝福された望みを取り巻いている出来事の時間的な順序で意見を異にしている。しかし、これら三つの諸説はみな、新約聖書著者たちもまた共有している「キリストが再臨される」という最も重要な強調点を共有している。
 この真理の中枢を共有しつつ、これら三つの諸説の信奉者のすべては、愛と忍耐の交わりを保つことができる。終末論の解釈に関して意見を異にするかもしれない、そして真の聖書解釈の原理を見出すために賢明に議論すべきである。しかし交わりの試金石としてはならない。
 わたしは、それらの解釈においてわたしのディスペンセーション主義の兄弟たちとかなり意見を異にしている。しかし彼らがディスペンセーション主義の捉え方を信奉する権利を擁護したい。わたしはディスペンセーション主義が誤った聖書解釈であると受けとめている。しかしわたしと意見が一致しないからといってだれとも関係を断つつもりはない。わたしは同じ忍耐をこれらの問題に関して意見が一致しない人々にも与えられることを願っている。
 愛において交わりを保ちつつ、わたしはディスペンセーション主義が歴史的信仰からの逸脱であり、聖書解釈における誤った方法に基づいていると強く確信している。それゆえ、わたしはきわめて大胆にも、もしわたしがわたしの命題を立証しえたなら、わたしもまたそうしなければならなかったのと同様、多くのディスペンセーション主義者が徹底して考え抜き彼らの終末論の思想体系に対して新しい評価を下すに至るであろうことを期待しているのである。

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           Note-020 : Evangelical Eschatology : 再考
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ディスペンセーション主義
1.ディスペンセーションの本質と目的スコフィールドは、ディスペンセーションを人間が神の御心の特別な啓示への従順の観点でテストされる一定の期間として定義している。彼はさらに、それらの期間は、二つの問い、つまり罪と人間の責任に関して、人類を取り扱う方法における幾つかの変化で聖書において区画されている。P.19
2.聖書の(極端な)字義的解釈特に、聖書の有効性が疑いをもたれるときには、神の啓示されたことばの有効性を保護しようとする解釈体系については驚くべきものがある。ディスペンセーション主義の成長は、聖書の権威に対する合理主義者の攻撃の勃興に並行して起こってきた。その成長へのひとつの大きな起動力は、聖書は神の言葉として文字通りに受け取られなければならない、そしてその意味は‘霊的に解釈’されてはならない、との一定不変の主張である。当時多くの人々の思いにおいては、文字通りの解釈でないものは、神の言葉の有効性を否定することと同等であるリベラル化の傾向と同一視された。P.21
3.イスラエルと教会の二分法厳格な字義主義の原則がイスラエル民族を起こされたときのアブラハムへの神の約束に適用されるとき、二つの結論がもたらされる。神は正確にイスラエルとのすべての約束を成就されるお方として義務を負っておられる。そして、それらの契約はまだすべての細部に至るまで成就されていないから、未来におけるキリストの地上支配は、キリストの教会への現在の関係とは、明らかに別個のかたちにでイスラエルとの関係においてそれらを成就する目的のために残されている。Pp.24-25
4.教会についての制限された見方ディスペンセーション主義の最も矛盾に満ちた見方は、教会についての見方である。現在のディスペンセーション主義は、教会は、王国がイエスによって提供されたときに拒絶することによって余儀なくもたらされたイスラエルとの神の計画の中での‘挿入’であると主張している。このアイデアは、ほぼ確実にジョン・ダービーによって創始された。それは彼の神学の中心をなしている。さらに彼は‘天にある’教会のまさに‘霊的’な概念を主張した。彼は、今キリストのからだ、神の御住まいは、それにもかかわらず明らかに、神の最初の贖いの計画の部分にはなかったものである、と主張している。P.27
5.王国のユダヤ的概念千年王国前再臨主義者は常に、キリストが肉体を伴って地上支配をされる未来の王国があると信じてきた。この王国は、千年王国前に、見えるかたちで、人格をもって、文字通りのキリストの再臨によって導入される、神の贖罪的支配の大激変的な成就である。しかしながら、ディスペンセーション主義は未来の王国を、おそらくキリストによってユダヤ人に提供される−ユダヤ人によっては拒絶され、教会にはその基盤を構成したところの−ユダヤ人の王国の回復に制限する。キリストが提供される王国は霊的な王国ではなく、アブラハムへの約束の文字通りの成就であるとのこの主張はこの見方の基礎をなしている。P.29
6.延期された王国延期された王国についてのアイデアは、これまで議論されてきた王国についてのユダヤ的概念に根差している。そして、これは歴史的信仰からディスペンセーション主義を区別するディスペンセーション主義の明らかな特徴をもって線引きしている。Pp.31-32
7.人間に対する神の取り扱いを生み出す律法と恵みの区別おそらくディスペンセーション主義の前提はこの命題をあまり強く否定することはない。確かに、概してディスペンセーション主義に固守するほとんどの牧師は、彼らがこのことを信じているとは認めない。それにもかかわらず、律法と恵み、イスラエルと教会、相違するディスペンセーションにおいて神と人との相違する関係についての前提は、それが論理的な結論へと導いてゆくとき、人間はすべての時代において同じ方法では救われないという−救いについての多元的なかたちを不可避的に結論する。Pp.33-34
8.聖書を区分することディスペンセーション主義は、ひとつの聖書箇所は同時に二つのディスペンセーションに第一義的な適用をもちえないと主張することにおいて、人々の部類に応じて聖書を分類する。多くの有名無実のディスペンセーション主義者は確実にそのことを理解してないのであるが、これは彼らの体系がもつ不可避的な結論である。その意味するところは、聖書のある部分はある人々にのみ制限される、そしてそれらのすべての部分は他の者に対しては除外されるここで明らかである。ディスペンセーション主義が認めているように、教会はペンテコステまで設立されていなかったとしたら、どの福音書もクリスチャンには直接に適用されない。山上の説教、主の祈り、イエスの倫理に関する教え−それらすべては‘王国の真理’である。ペンテコステの後にさえ、王国は再びペテロに提供された、そして第三にステパノへの石打ちにおいて、ここで使徒行伝はそういうわけでユダヤ人と王国に言及されている聖書箇所と異邦人と教会に言及されている箇所とに分類されなければならない。Pp.37-38
9.患難前携挙説確実にほとんどの人々がディスペンセーション主義を受け入れているポンイトは、大患難前の教会の携挙の教理である。預言解釈の全歴史において、このアイデアは知られていないものであるのだが、気づかれることなく、多くの人々はこれを唯一の千年王国前再臨説の立場であると認めている。千年王国前再臨主義者は、キリストが千年王国支配が確立するために人格をもって、文字通り、見えるかたちで再臨されることを常に信じてきた。しかし、ただディスペンセーション主義の出現をもって、大患難前再臨説の概念が現れてきたのである。P.38これは正確に、ディスペンセーション主義の特徴的性格のひとつをあらわしている。携挙のアイデアは、ディスペンセーション主義においてさえ解釈からは生まれてこない。ただ、ディスペンセーション主義の教会についての概念から生まれてくる。P.39もちろん、大患難前携挙説の見方は神の全的贖罪計画から教会を分離する解釈原則に根差している。教会は、それが患難期を生き延びる残された者を通しての回復の最初のステージである王国の一部分ではないゆえに、大患難以前に携挙されなければならない。P.40
10.大患難の目的エレミヤ30章、ダニエル12章、マタイ24章、そして黙示録7章で教えられているような患難における信仰はまた、歴史的千年王国前再臨説の特徴であった。しかしながら、問題のポイントは、この患難の目的である。ディスペンセーション主義によれば、ユダヤ的王国に関連して特別な目的を保有している‘大患難’についてはなにも知らない。P.41そのような患難の教えの基盤は、イスラエルと教会とのずっと続く現在の区別に根差すディスペンセーション主義の統合的体系である。イスラエルの残された民が集められる前に教会は取り除かれていなければならないゆえに、患難前の携挙はこの概念から生起している。P.42
11.キリストの千年王国支配の性質ディスペンセーション主義は主として千年王国に焦点をあてているということは接頭辞ではない。教会は挿入句、あるいは少なくとも閏であり、王国はアブラハムに約束され、ダビデにおいて再確認され、キリストにおいて提供されたが拒否されたので、イスラエルに対する神の計画の完全な成就は、千年王国でキリストによって設立される回復された王国に典型的にあらわされている。ディスペンセーション主義者の千年王国は決定的にユダヤ的特徴をもつものとみられる。集められたイスラエルはキリストの働きの焦点である。千年王国は、旧約聖書預言の文字通りの成就である。それゆえ、その統治は神政政治である。キリストは、彼の摂政としてのダビデとともに、諸民族を支配するために座しておられる明らかな玉座を保有される。エルサレムに統治の座がおかれ、民族的な区別は継続される。集められたイスラエルの諸部族がすべての事柄の血夕診となるのだから、地上のすべての民族はイスラエルに従属する。P.43
12.字義的な「永遠の状態」理解ディスペンセーション主義の厳格な字義主義に首尾一貫して、責任あるディスペンセーション主義者は黙示録2122章の新しいエルサレムは教会が永遠に住まう実際の都であると教える。その都は天にではなく、物理的な地理的位置をしめる。天において神とともにある教会の聖徒たちは永遠の安息のために今この新しい都に移される。
13.キリスト教界の背教的性質−地上の見える教会と見えない天的教会ダービーの思想において生み出された最も初期の原則のひとつは、真の教会とキリスト教界との相違であった。真の教会は、膨大な信仰告白しているクリスチャンのうちの限られた数、つまり救われた人々のみが含まれている。教会的な組織は、ここ地上にみられる永遠で見える教会−組織としての教会を腐敗させている。それゆえ、教会は今日見られる組織としての構成をもつものとしての視点からは記述されえず、ただキリストに対する信仰者との関連の視点においてのみ記述されうる。教会は地上にはなく、天にある。個々の信者は、ここ地上の教会にバプタイズされるのではなく、キリストとの関係において天にバプタイズされるのである。実際の結果として、このことは、ダービーにすべての組織化された教会組織への不信感を引き起こした(彼は彼自身ひとつとなるものを創造しようとしたのだけれども)。教会を構成するものとしてキリストに関係する天的な個人と教会組織への不信という二つのアイデアは、ダービーの運動の中に分離主義の霊を創り出すことに結びついている。ダービーの解釈に同意しない人々は、「真理をもっていない」、あるいは「時代の神の計画を理解してない」ものとして性格づけられ、その結果として幾分‘背教’したものとして特徴づけられた。

福音主義
1.使徒は旧約と新約は有機的一体理解
2.使徒の聖書解釈の原則のバランス
3.使徒は霊的・有機的に一体と理解
4.使徒は旧約と新約の霊的連続性理解
5.使徒は神の国を普遍的に理解
6.使徒には延期という考え方はない
7.使徒には、人間に対する神の取り扱いに差別はない
8.使徒は聖書を有機的一体的に理解
9.使徒は患難後携挙説理解
10.使徒は教会が患難期を通ると理解
11.ユダヤ的ではなく、普遍的
12.象徴的描写と理解
13.見える教会と見えない教会の理解

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           #Note-019 : Evangelical Eschatology : 再考
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D主義に関する学識の新時代の到来

1.最も重要な案内書
2.D主義の種々の発展におけるダービーの位置づけ
3.バスの公平かつ客観的で、論争的でない手法

S.R.スペンサー「2005年版への序」by S.R. Spencer

幾つかの他の今日の諸研究とともに、ディスペンセーション主義の背景』(1960)の最初の出版は、ディスペンセーション主義に関する学識の新しい時代の到来をしるしづけた。ディスペンセーション主義ははじめて第一義的に論争的でない批評的な分析を受け取った。気が遠くなるほど膨大な第一義的資料に対するバスの広範な研究と神学的諸発展についての注意深い分析は、この目立った神学的伝統への歓迎すべき洞察を提供している。
ディスペンセーション主義の背景は、この伝統について研究する者にとって最も重要な案内書であり続けている。バスは、助けになるようにと「牧師レベルのディスペンセーション主義者」とより精巧かつ緻密で微細な差異を区別する「学究的レベルのディスペンセーション主義者」を区別している。そのような区別はほとんどの神学的諸伝統にもあてはまるかもしれないけれど、ディスペンセーション主義の扱い方としてきわめて適切なことといえる。「牧師レベルのディスペンセーション主義者」は、おおむね福音主義とアメリカ文化双方の内部において「学究的レベルのディスペンセーション主義者」に数においてにはるかにまさっており、ディスペンセーション主義の知れ渡っている外観を特色づけている。C.I.スコフィールドやアルノ・ギャブレインから、ハル・リンゼイやティム・ラヘイまで、そして大勢の聖書教師や牧師たちの「牧師レベルのディスペンセーション主義者」は外部の人と内部の人双方に一様に彼らの最も強力な概念を供給している。
ディスペンセーション主義の背景は、1800年代初期から中期の英国におけるジョン・ネルソン・ダービーとプリマス・ブレザレン運動の下にあったディスペンセーション主義の出現を洞察に満ちたことばで説明している。その脈絡はこの伝統を解明するとともに、ディスペンセーション主義のうちに存在したブレザレン運動ブレザレン運動に属さなかった多様なグループとの間の幾つかの重要な相違点をも明らかにしている。19世紀と20世紀前半にわたっての米国におけるディスペンセーション主義の多様性と種々の発展は、ディスペンセーション主義が長く引きずっているジョン・ネルソン・ダービーの神学の影を過小評価することのできないことをわたしたちに思い起こさせる。けれども、多くのディスペンセーション主義者は急激にダービーの系統から距離を置くようになっている。後代のディスペンセーション主義者はダービーにとって最も特徴的であった捉え方の幾つかを改変したけれども、ダービーの貢献は初期のディスペンセーション主義にとって決定的なものであったことを正確に立証している。わたしたちは、ダービー基本的な役割を過度に強調することをも避けつつ、それを過小評価することもしてはならない。バスの著作は、ダービーの神学に関する重要な資料源と後代のディスペンセーション主義において持続力となったものを明らかにしている。
バスは、その主題に関して「公平かつ客観的に扱う」ことを試み、「論争的でない手法」において書かれた著作と評されている、論争的でない研究を提供することを探求した。「その目的はディスペンセーション主義に反対する論拠を構築することではなく、公平無私かつ客観的にこの思想体系の歴史的な誕生がどのようなものであったのかを確定しようとすることである。それゆえ、その本は学究的レベルのディスペンセーション主義者を論駁することを目的としているものではなく、それは牧師レベルのディスペンセーション主義者がその体系を理解できるように助けることのみを意図したものである。」公平無私な客観性という主張は、特にディスペンセーション主義に対するバスの以前の傾倒からして、1960年代に彼らが取り組んだとき以上に、まことしやかに思われないかもしれない。しかし、バスの批評はディスペンセーション主義を最良のかたちで取り扱っている。
バスの著作が最初に出現し、さらに1977年に再販されて以来ディスペンセーション主義神学に多くのことが起こってきたチャールズ・C・ライリー著今日のディスペンセーション主義』(ムーディ出版、1965)、と新スコーフィールド・リファレンス・バイブル(オックスフォード大学出版、1967)は、ディスペンセーション主義における重大な展開をしるしづけた。もろもろの批評には責任をもって応答をなし、数多くの誤りは正しつつ、ライリーはディスペンセーション主義の多様性古典的ディスペンセーション主義と改訂ディスペンセーション主義とを区別した。著名なディスペンセーション主義の教師たちからなる高名な編集委員会により改訂されたスコフィールド聖書は、スコフィールド聖書の最も問題のある注釈箇所を取り除き、他の注釈もまた修正した。
展開の第二段階は、「漸進的ディスペンセーション主義」として知られるものとして結実することとなった1980年代と1990年代に出現した。(神学者たちではなく、その神学に名づけられた)この名称は、贖罪史における種々の管理責任の間にある統一性と連続性に大きな強調の光が当てて際ただせられている。それはまたディスペンセーション主義との、他の福音主義の諸伝統、プロテスタント、そして普遍的で伝統的なキリスト教会の伝統との関係を強調するものである。ほとんどの漸進的ディスペンセーション主義者は、キリストの未来における千年王国支配を主張しつつ、開始されたメシヤ的王国という見方、そして社会的・文化的脈絡の中における、そしてその中への教会のミニストリーにとっての神の国の意義を教える。
漸進的ディスペンセーション主義は、幾らかのディスペンセーション主義の教授陣や神学生の間に心備えのできた支持者を得てきたけれども、それはディスペンセーション主義のより巨大な集まりのうちの単なる小規模の少数者派を代弁しているにすぎない。ディスペンセーション主義者たちの大多数はより初期の諸展開の幾つかの形態に傾倒し続けている。ライリー・スタディ・バイブルに則したライリーの本(1995年に改訂された)と、改訂されたスコフィールド・バイブルは、レフト・ビハインド・シリーズのように、そのニュアンスはしばしば大衆文学からかけ離れたものではあるのだが、相変わらず最も基本的な神学的言明を保持し続けている。ほとんどの今日の唱道者はその歴史的諸展開や彼らの神学における多様性について無知であるが、それらの改訂版の多くは、バスが強い光を当てている諸特徴を語りかけている。ディスペンセーション主義の背景は、それらの諸展開の非常に重要な初期の諸段階をよりよく理解するために貢献している。わたしはこの再販を喜び歓迎している。

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           Note-018 : Evangelical Eschatology : 再考
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ディスペンセーション主義の「福音主義的終末論」への貢献

1.終末論の重要性の強調−進歩主義的歴史観VS再臨の教理
2.現代神学と同時進行的に発展−地上に定住VS寄留の民
3.神の国についての概念−倫理的な交わりVS歴史の完成への待望
S.J.Grenz, ”Millennial Maze”

ディスペンセーション主義が、正しい神学体系であるかどうかは別にして、ディスペンセーション主義は終末論の重要性を強調することにおいて非常に重要な貢献をしてきた。
すべての意図と目的のために、ディスペンセーション主義はキリストの再臨の教理を回復させ、キリストの再臨を諸教会において重要な真理とした。
この注意の喚起は、多くの教会が”祝福された望み”からその関心を引き離され、より良き世界は人間の試みによってもたらされるとみえる進歩の方向に向けられる時に展開させられてきた。進歩主義的歴史観−岡山英雄「患難期と教会」参照
ディスペンセーション主義は、神の民があらゆる時代において寄留の民であり続け、世界に対する究極的な希望よみがえり主の再臨にかかっているということを忘れることを断固として拒否した。
この意味において、ディスペンセーション主義は福音主義的選択肢という以上に、ほとんど現代神学と同時進行的に発展してきた。
自由主義神学が神の国についての聖書的概念倫理的な傾向をもつ交わりの視点において解釈した19世紀後半期の始まりとともに、現代聖書学の分野では聖書の光景の中に黙示的次元を再発見した。その発見の意味を熟考するよう神学に取り上げられたのがほとんど世紀の四分の三ほどであった。
いくぶん同時進行のかたちで、福音主義者たちが地上に定住することに関心を寄せる時、ディスペンセーション主義は福音主義の共同体に聖書の文学と歴史の黙示的視点を再導入した。ディスペンセーション主義は歴史の完成に関する聖書的待望を真剣に取り上げるよう福音主義者たちに喚起したのである。

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           Note-017 : Evangelical Eschatology : 再考
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福音主義神学再考における取り組みにおけるファン・ルーラーの神学の魅力
牧田吉和ファンルーラーにおける三位一体論的・終末論的神の国神学と聖霊論
1.十分に発展させられた三位一体論の観点
1.宗教改革の本質から生じる必要性
2.改革主義の伝統から生じる必要性
3.近代意識から生じる必要性
ファン・ルーラーは、敬虔主義後に啓蒙主義が起こったが、宗教改革と啓蒙主義とは果たして対立を意味するだけなのか、と問う。近代主義と新プロテスタント主義においては、聖書主義、合理主義、ロマン主義、理想主義、すなわち、聖書、理解、感情、理性、イデアと歴史、存在と超越などが問題となる。歴史主義や心理主義が問題となる。敬虔主義の霊的ニーズと同様、これらのことは、近代人の真の霊的ニーズなのであり、単に「キリスト教信仰の喪失」を語るだけでは終わらないのではないか。むしろ、十分に展開された三位一体論が、すなわち聖霊論の展開が必要とされているのではないか。
ファン・ルーラーは、この他に「エキュメニカルな未来性」、「使徒的活動」、「世界の中の教会の位置」、「すべては開かれた多元性の中で未決にとどまること」などから、「十分に展開された三位一体論の必要性」について論じる。しかし、上に挙げた具体例において、三位一体論の十分な展開の必要性、すなわち聖霊論的展開の必要性の意味はすでに容易に理解できるはずである。そこには、もちろん、バルト神学の批判的克服の意図も読み取ることができるのであるが、もっと言えばローマ・カトリシズム、宗教改革、敬虔主義、新プロテスタント主義、実存主義等々の一切を統合するような驚くべき神学的企図が秘められているのである。
2.終末論的神の国の観点
3.聖定論の観点
4.聖霊論の構造的特質−キリスト論と聖霊論の構造的差異
5.三位一体論的・終末論的神の国の神学と聖霊論
結び

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           Note-016 : Evangelical Eschatology : 再考
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参考文献

宇田進著総説 現代福音主義神学

8.「未来感覚」と歴史の神学

1.ブルトマンを中心とする実存論的終末論←60年代にきびしい批判=新しい動向
1.ユルゲン・モルトマン
1.カント主義の影響による世界喪失を克服
2.神学における世界の回復
2.ボルフハルト・パネンベルク
          
not      
1.実存論神学−歴史=人間実存の歴史性に限定−神の啓示の拠点
2.救済史学派の立場−一種の超歴史的なもの−啓示の場所
       
but
3.この歴史的世界全体−普遍史=啓示の舞台−神学における歴史の回復
3.シャルダン−類似した動き
1.巨大な進化過程−進化感覚−「神のオメガ(終局)点」(進化の原点としてのキリスト)
2.未来への普遍的信仰−進歩・進化への信仰、再臨への期待、偉大な終末論的変貌
2.モルトマンによる新しい動向−注目点
1.カント主義の批判とその克服の問題
2.カント主義の根本問題性−物化と主観性の分裂
1.物化−世界の物化という事態
2.主観性−神への道
3.キルケゴール−カントの二元論の徹底
3.カント主義の問題の克服−神学上の重要なアジェンダ
1.モルトマンとパネンベルク−克服の道をヘーゲル主義の方向
2.カントとドイツ観念論−有限者を超越し、有限者から断絶した絶対者の立場を否定
3.ヘーゲル−無限者と有限者
4.ヘーゲル−歴史の過程=目的論的に把握
5.モルトマン
1.not 世界−死せる合理的機械論的メカニズム but 変化・流動する歴史的世界
2.人間の経験になかった新しいもの−生起する可能性−未来に向かって開かれた世界=聖書の立場
3.この世界理解に立って−聖書の具体的な解釈
4.約束と希望の構図−具体的歴史を地平に
4.モルトマン、パネンベルク−終末論における新しい動向
1.多くの歓迎すべき強調点
2.20世紀の非神話化論の頂点・一種の現代的神秘主義−実存論的神学への矯正的な働きの功績

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           Note-015 : Evangelical Eschatology : 再考
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宇田進著総説 現代福音主義神学

6.「実存集中」:ブルトマン

1.ブルトマンの終末論
1.解釈学的パラダイムとしての聖書の「非神話化論」に基づいて構築
1.聖書−時代史的に制約された神話論的なもの−ユダヤ黙示文学的未来終末論−神話論的終末論の受容−今日、不可能
2.ハイデッガーの人間存在の歴史性を土台−終末論的実存の生起実存論的現在終末論
2.イエスの見解
1.シュヴァイツァーの見解の受け入れ:イエス−「歴史の終わりと神の国の出現がイエス自身の差し迫った未来の中に起こると期待していた」
2.イエスの説教に新しい側面:@神を今まさに到来する神として捉える、A神の国は、真に迫りきつつある神の将来に対して開放された生を選ぶか、空虚なこの世に束縛され、神の将来に対して自由でなく、開放されていない生を選ぶかの決断の状況に引き出す=終末論的出来事
3.初代教会の意識
1.ユダヤ黙示的終末論からの解放、
2.現実の実存を決定づける、まさに現実化しつつある将来として理解したか
1.初代教会自らを、もはや現在の世界に属するものではなく、終わりの日の「終末論的共同体」であり、入口まで来ている新しい世に属する
2.神の新しい民−実際に歴史をもたない。それは、終末の時の共同体であり、終末論的な現象
3.終末論的共同体−今もなお現存している世界から取り出されている、この世界はけがれと罪の領域、国籍を天に持つキリスト者は他国の者−歴史は終末に飲み込まれ、「非世界化」される
4.パウロの理解
1.予期された再臨実現せず−次に、新しい局面として、「人間論」を基礎にして「黙示文学的終末論」を再解釈−パウロの方向性
2.パウロにおいて−「人間論」の中に、全教理が包括される。終末論の中心−「非世界化」と呼ばれる終末論的実存
3.歴史はもはや関心事ではなくなり−代わって、人間存在の真の歴史的生に焦点
4.キリスト者の実存の弁証法−キリスト者の生−「もはやない」「まだない」との中間の途上に絶えずある
5.ヨハネの現在終末論
1.未来終末論の排除と実存論的終末論の確立−最終段階へ
2.終末論の中心的テーマ−世の終り、死者の復活、最後の審判−終末論的出来事として「イエスの現臨」うちに生起
3.グノーシス的二元論に由来する光と闇、真理と虚偽、自由と束縛、生命と死などの対立的概念→人間実存の可能性「本来的」か「非本来的」かを意味する
4.信仰者の生−静態的な状態ではなく、直説法と命令法との弁証法による動態的運動として捉えられている
5.終末論における「実存論的出来事化」−歴史観より「実存的有意義性」の強調

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           Note-014 : Evangelical Eschatology : 再考
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大木英夫著『終末論』

弁証法神学における神学的終末論:バルトの質的弁証法終末論

1.1920年代は、二十世紀の終末論研究史における一大転回をみる。この転回は六十年の展開に至るまでの四十年間の路線を決定した。
2.イエス時代の古代的思想としての終末論ではなく、神学的に独特な意味が付与されて終末論は現代の論理と化する。−こうして、終末論は古代思想ではなく、現代的思惟となる。
3.弁証法神学は、バルトのローマ書によって出発した。これはまったく新しい神学思想であった。191418年まで、全ヨーロッパを揺り動かした第一次世界大戦があった。弁証法神学は第一次世界大戦の戦後派の神学といっても間違いではない。バルト、ブルンナー、ブルトマン、ティリッヒ、アルトハウスのような人々は、大体三十代初期にこの戦後を迎えた。これは大きな文化危機であった。弁証法神学は当時「危機神学」とも呼ばれた。「文化危機の神学ではなく、文化の審判なのである。」
4.第一次世界大戦が、決定的な歴史的断絶をもたらし、それは近代文明のオプティミスティックな進化発展の歴史的終末を意味するような断絶であった。この「歴史の終末」は、近代的歴史意識の破滅でもあった。こうして、思想世界における「非歴史的時代」が打ち開かれたのである。
5.バルトの終末論は、キルケゴールによって本質的に規定されている。バルトは「もし私が方式なるものをもっているとすれば、それはキルケゴールのいわゆる時間と永遠の無限の質的差異なるものの否定的及び肯定的意味をあくまで固守した。神は天にいまし、汝は地にあり。私にとってはこの神とこの人間との関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である。哲学者たちは人間の認識を脅かすこの危機を根源と呼ぶ。聖書はこの十字路にイエス・キリストを見る」。
6.バルトが、ローマ書解釈のためにこのシステムを適用すべきであると考えるのは、そこでパウロが語っているのが、「時間と永遠の恒久的危機」についてであり、それ以外の何ものでもないと見る故である。バルトのローマ書は、歴史的な研究ではなく、組織的なシステマティッシュな研究である。バルトはそれを「歴史的釈義」に対して「神学的釈義」と名付けた。この組織的思惟の性格こそ、彼の言う終末論である。それはバルトの思惟方式であるだけでなく、ローマ書におけるパウロのキリスト教の性格でもある。すなわち、終末論とは、「永遠と時間の質的差別」の論理である。
7.その典型的用法を、バルトのローマ13:11以下の「眠りからさめるべき時」の解釈に見る。「眠りからさめるべき時がここにある。なぜなら今やわれわれの救いが、われわれが信仰的になった時よりももっと近くにあるからだ。夜はふけていき、昼が近づいた。」永遠の瞬間はすべての瞬間に対立して無比なるものとして立っている。それはまさにそれがすべての瞬間にとって超越的な意味だからである。救い』『神の国は、すべての時間に対立して無比なるものとして立っている。それはまさにそれがすべての時間にとって成就だからである。この瞬間、この時間は眠りから醒めるべき時である。それはまさしく不可視なる仕方においてその真っただ中におかれたる今によってその前とその後へと限定されている時である。
8.この永遠と時間の弁証法は、信仰的主体性の緊張した転回において把握されている。時間にとっては全く異質的な永遠に何らかの意味で関わるとするならば、それは眠りからさめるということに似た質的転換でなければならない。この覚醒の瞬間は、イエス・キリストが誕生したように時間の中に起こる。しかしもしそれが生起したなら、覚醒によって眠りが破却されるように、眠りの時間は止揚されてしまう。それがひとたび生起したならば、時間は無限ではなく限界づけられてしまう。人間がそこへと売り渡されているところのあの牢獄的時間性は破れ目をもつのである。そのところから人間は解放される。バルトのローマ書においては、救済はこの時間性からの解放となる。
9.